このブログが私にとって信頼できるシステムとなりました。

私んちを見てる方はRSSの人が大半だと思っています。なので、本家ブログは好き勝手にセルフビルドしています。というか、自分が後で見返しやすいよーに、せっせこ修正を加えています。

このブログ自体が信頼できるシステムとなった!

ブログのシーズンを切り替えるあたりに、自分なりの考えやアイデアをまとめる場所をどこにしようか考えてました。で、本を作るにしても、Windows Live Writerで書くのがいいあたり、works4Lifeというシステム自体が、アウトプットするサイクルとして最適な場所になっているんだと、最近になってはたと気づいたわけです。

だったら、もうこのシステムを完全に自分用のストック場所に作ろうと、思ったわけです。でもブログとちょっと違うなぁと。で、せっかくだから、素敵な言葉も作っておこうと思って作ったのがこれ。

MementsShips

MementsShipsとは?

ブログの機能を以下としたとしましょう。

ブログ=記事を保管する

+記事を読者に公開する

MementsShipsは、そのブログの機能を拡張したもので、機能としては以下のものを想定してます。

MementsShips = 記事を保管する

+記事を読者に公開する

+自分用の記事を保管する

+自分用の記事を半公開する

MementsShipsは、外部向けと内部向けをかねそろえたシステムということです。

じゃ、自分用と公開用と、どういう基準で区別すればいいのか、というのはRSSの制御とトップページの表示制御で対応しました。

これであれば、見た目や一見では今までどおりで、視点のばらつきへの記事への変化も徐々に変更していくことができるようになったと思います。

デザインは見るのにウザくないように

シーズンを挙げたこともあって、テーマもごっそり変えました。

  • 見るのにうざくない
  • サイドが記事を見るのに邪魔だ

ってんで、サイドバー関係を全部下っところにおいやりました。posterousが見やすいなーと思ったんで、なるたけ近いイメージに持っていこうという種子。じゃなかった主旨。

で、広告。本とかの紹介にアフィリエイトとかはしますと思います。見栄えがいいのとわかりやすいので。けれども、テキスト広告等はしません。理由は醜いからと、意識がぶれてしまうからです。

 

かわりにカテゴリは更に充実させること

デザインを簡素にした代わりに、ブログの記事の文脈については、カテゴリで分けることにしました。最近ようやくこの構成が大分収まってきていてうれしい限り。

大枠のカテゴリ5つ

大枠のカテゴリは5つあります。

  1. Inbox – とりあえず入れる。Posterousも一旦はここに入れる
  2. Abstract – やわらかい曖昧な文章。自分ですらよくわからないもの
  3. *Drafts – 若干固めの文章。一応理解できるレベルだが、外部向けに体裁が万端でないもの。
  4. *Publishments – 外向けの文章。
  5. Private Lists – 個人的趣味なリスト。プレイフルリストもここに一部紹介していく予定

大枠のカテゴリは、私の文章に関するスタンスがどうも異なるものが混ざってるのが気持ちが悪いことから分けるようにしました。

で、あと、なんかそういうわかりにくいものと、(私の中でもまだ)わかりやすいものとがRSSで混ざるのはイヤだな、と思ったので、RSSに流す記事は制限しています。大枠カテゴリのうち、DraftsとPublishmentsに相当するものだけ流してます。

Abstractの記事の位置づけは、編集や別の記事にする可能性があること。Draftは習作とかそういう中途半端で終わってしまったものたちの置き場な感じです。

Publishments配下のカテゴリ

で、Publishmentsは更に4つに大きくカテゴリわけてます。

  1. 諸連絡 – インフォメーション連絡的な内容のもの
  2. 単発記事 – カテゴリがよくわかんなくなったらここ
  3. リスト記事 – 系統が似通ったもの。カテゴリのライフサイクルは循環系。要するにいつ終わるかよくわからん。
  4. 特集記事 – 何かテーマを決めて生地にしているもの。基本数回連載してクローズ。

とりあえず、今はわけるとこまではきれいにいったのですが、見方が最適化されてないのでもうちょっとWordPressに修正をかけなきゃいけないような感じです。

 

Posterousの位置づけ

で、Posterous。併用してますが、基本は入力用のハブツールとして使っています。Posterousの記事は、こちらのブログに全部流してます。最終ストック場所はこちらの予定です。

Operaが10.53から選択クリップができるようになって、私もタンブラ系のツールの恩恵を受けられるようになってうれしい!!

むしろロイターの写真スクラップがメイン

といいつつ大半がロイターの写真スクラップばかりをしています。数エントリー写真のログが流れたのがそれです。数が多いのでRSSの対象からは外してます。

ロイター写真はいいです。サッカーの中継を知らない私でもサッカー写真は見ることができます。真剣な写真もあるし、時にはおちゃらけしたのもあるし。私は編者がどういう気持ちで選んだのかを考えるのを楽しんでます。写真のセットによって、ツボの合う編者とそうでない編者がいたりして楽しいです。

 

プレイフルリストの項目はRSS対象です

プレイフルリストをつくるようになりました。これは、自分なりの楽しみを見つけること、これの実践サンプルとして、RSS対象にしています。なんだか当初のプレイフルの意味からずいぶん離れていますが、まぁ気にしない。

先日 IDEA*IDEAの方で、ニューヨークで楽しむリスト、というのがありましたが、プレイフルリストの趣旨はにたような感じです。それを私専用に特化してるって感じです。

私自身が、このプレイフルリストを実行する時期は、いつかはわかりませんが、なんだか面白そうだと思ったら、実行してみてくださいです。これから、ちょくちょく紹介していく予定です。

 

 

ようやく満足するデザインに落ち着きつつある

今までブログを経由して、記事を書いてきました。その間、私はブログというシステムに満足したことがありませんでした。理由はただ一つで、見返す気になれない、ということでした。

それが、シーズンVIに切り替わりに、自分の意図を反映したデザインでブログを構築することができました。これだけでも、私にとって大きな違いです。works4Lifeと言うシステムが、単なるブログから、信頼するシステムの一つMementsShipsとなった瞬間です。

上のセンテンスで述べたデザインには、画面上のデザインも、カテゴリ等の構成のデザインも、またRSSを流さない制御のデザインも全て含まれます。残念ながら、これら全てが揃わなかったら、満足するシステムにはならなかったでしょう。デザインとは、自分がこのように振舞わせたいと思った内容を、実現するための方法に作用するものです。意図なくしてデザインはないと思います。

 

現在のブログシステムについてはこんなところで構成しています。ちょっとばかりでも、見やすくなったらこれ幸いです。今後もよろしくお願いします。

2010/07/10 第22回GTD勉強会 僕の私のGTDツール紹介を共有しよう!

7月は「僕の私のGTDツール紹介を共有しよう!」が、テーマです。

■勉強会詳細

  • 日時:2010/07/10 (土)
  • 場所:東京/新宿 ルノアール 新宿3丁目ビッグスビル店
  • 時間:15:00-18:00(3時間)
  • 定員:20名
  • 参加費用:場所代+ドリンク代です。人が集まると安くなります。
  • mixiURL:http://mixi.jp/view_event.pl?id=53835272&comm_id=3013597

■今回の勉強会の内容について

今回は、実際に取り扱っているツールを共有していこうというものです。

前回までは、レビューステップについて詳細を見てきました。しかし、論より証拠、百聞は一見にしかず、というわけで実際GTDをされている皆さんの中で、ツールを紹介しながら、どういう風に利用していったりしているのかを、見ていけたらなと思います。

全員が紹介する!ということはたぶん時間的にも無理なのでロム専門の方でもOKです。お気軽に参加ください。

GTDに特定のツールがないのは、今現在の自分にとって最適なツールはそれぞれ異なるからです。誰かが使っているツールややり方をまねることから初めて、それから自分に合う方法に工夫していくのがGTDツールの開発方法です。今回の勉強会を機会に、ちょっとやってみっか!と思えたらうれしいです。

■今回の持ち物

・ツールを紹介する人は紹介するもの

■スケジュール

  • 15:00(40min)~ 開始/挨拶/自己紹介(人数依存)
  • 15:40(110min)~ 各ツール紹介
  • 17:30(30min)~ クロージング(感想共有)

尚、勉強会後に懇親会という名の飲み会を行っています。都合が合わなくてこっちだけでも参加してみたい、という方でもOKです。

あと、参加の際には、ツール紹介するか見るだけなのかコメントに追記してもらえると、ありがたいです。時間配分に影響するので。

ではでは、よろしくお願いします。

ますますホワイトボードがほしくなった。。 via 447ブログ: 両親の習慣から学ぶホワイトボードとカレンダーを使ったライフハック

私の両親は夫婦でホワイトボードを共有し、互いのスケジュールや連絡帳として使っています。例えば、父がどこか旅行に行くときの使い方を紹介しますね。
まず始めに父は旅行の工程表をホワイトボードに貼りつけます。貼付けにはマグネットを使っています。その後、工程表の日程や宿などの連絡先をラインマーカーでマーキングします。マーキングの隣には簡単なメモも書き込んでいます。たいてい、「お土産何がいい?」と書いてありますので、マーキングやメモは自分のためでもあるし母のためでもあるのでしょう。
カレンダーには、旅行に行く期間にラインを引き◯◯旅行と書きます。この◯◯旅行という旅行名は、ホワイトボードの工程表の旅行名と同じ名前ですので、カレンダーからホワイトボード、またはその逆に辿ることが簡単になっています。
旅行直前になると工程表のメモに追加で持ち物や出かける時間を追記しています。父曰くここに書いておくと母が支度をしておいてくれるんだそうで(ちょっと羨ましい)。
旅行が終わったら工程表はもう必要ありませんので、ホワイトボードから外します。そして一部を切り抜いて、旅行の写真と一緒にアルバムに綴じているようです。ちなみにこの作業は母が趣味でやっています。

Posted via email from 私的言語

嫉妬と上手に付き合って「競争心」とかに転嫁させる具体的な方法

 

このように、誰かに嫉妬するということは、自分に足りない何かを他者の中に見出したからこそ発生するものですが、その原因を取り除くには三つの方法しかありません。一つ目は、諦める。二つ目は、忘れる。そして三つ目が、乗り越える、です。

嫉妬の解消法 :投資十八番

 

嫉妬について書いてあったので、興味持って読んでいた。私は嫉妬と無縁、、というほど無縁でもなく、時たまそういう感情も現れる。なんで、方法にも感心しながら読んでいた。で、記事のラストにこうあった。

もう一度書きますが、嫉妬は基本的に自分より少しだけ優っている他者に抱くものであって、上手に付き合って「競争心」に転嫁させることで成長の糧となります。己を知らずして嫉妬するなかれ、ということです。

嫉妬の解消法 :投資十八番

 

確かに上手に付き合って「競争心」に転嫁させればいいんだよね。それってどうやんの?

 

 

「Aちゃんが、私と同じ立場だったら絶対同じことするでしょ」

最近では、嫉妬とは結構いいお付き合いをできるようになった私だが、その嫉妬に対して付き合いよくなったのは友人の一言だった。友人は好きな歌手がいて、よくコンサートに出かけたりする。で、その出かける数が多くて、それをやっかまれるという。そんな状態に対して言った友人のセリフが見出しの通り。

「Aちゃんが、私と同じ立場だったら絶対同じことするでしょ? 私は実行できる立場にいて、Aちゃんは実行できる立場ではないだけ。だから私は実行する」

と。つまり、嫉妬は本来自分がしたいことなのにもかかわらず、自分がそれを実現できないから発生するんだっていうことだった。これには、なるほど~、といたく膝を叩いたものだ。

で、それを踏まえて、私が嫉妬に出会った時に解消するのに、最近している行動が以下の3通りだ。

 

  1. 嫉妬の対象が実現できるか突き詰めて考える
  2. 何かしら行動する
  3. 自分に足りない何かを他者に見出したことで、解釈転換する

 

1.嫉妬の対象が実現できるか突き詰めて考える

友人の言葉からみると、自分があたかもそれを実現できたはずなのに、誰かが横取りしやがった! という感覚が嫉妬なんだろうと思った。

で、その状態が過去から現在までの自分が実現可能かどうか、というのを突き詰めて考える方法がこれ。嫉妬の対象の人間と自分とを比較したり、その対象の人間が実行してきたであろう行動を考えて洗い出してみる。そして過去から今の自分が、それを実行できるかどうか考えてみる。

そうすると、実現性という点で、ものすごく冷静になって、「あ、無理だ。自分にはできん」と思って嫉妬という感情は解消される。

自分でも実現できたはず、という可能性が消えるので、嫉妬という感情からは解放される。

 

2.何かしら行動する

とにかく何もしていない時は、何か行動をしている人間に焦る。どうして焦るのかって言えば物理法則の反作用の法則を大きく影響している、て考えとけばいい。どうせ人間も分子も固まりなんだから。

ここでは、行動していない、相手と同じぐらいの運動量を保持していないのが原因だから、何かしら行動してみるのが、嫉妬をなくす一番手っ取り早い方法だ。

行動している時は、その行動内容に気が取られているので、誰かの行動については注意が削がれる。結果、嫉妬も薄まる。

 

3.自分に足りない何かを他者に見出したことで、解釈転換する

嫉妬は醜い。嫉妬はすべきじゃない。

んなこたぁない。

むしろ私にとっては、理解しやすいシグナルの一つだ。自分が何に対して憧れをもち羨望をし、これから実現したい姿が何なのか、というのを確実に知らしめる絶好の機会だ。

すべきじゃないのは、嫉妬を持った結果、相手に対してあげ足をとったりして、相手を引きずり降ろそうとする、妨害しようとする行動だ。

嫉妬に出会ったら、「そうか!自分はこういうものになりたかったんだ!!」といいように解釈する。嫉妬をポジティブに転換させることで、別の力に変換させることができる。そうして、嫉妬は別のエネルギー体となって、自分の糧になる。

 

3つの方法を使った一連の対嫉妬処理ステップ

で、この3つを使った一連の対嫉妬処理ステップは次の通り。

  1. 嫉妬キタコレ!わかりやすいゴールいらっしゃーい!(3.自分に足りない何かを他者に見出したことで、解釈転換する)
  2. 自分に何ができてて何ができてないのか調べよう!(1.嫉妬の対象が実現できるか突き詰めて考える)
  3. よーし、足りないものは実行するぜ!(2.何かしら行動する)

 

以上で、私の嫉妬は大概解消される。理詰めの対策方法なんで、好みがあるかもしれないけども、私はこんな方法で解消している通り。私は反対に競争心があるのが苦手なので、競争心にはならないけれども、人によってはうまく競争心になって、それに対する行動もできるんじゃないかなと思う。

ひとまず何かを実行している限りには、そんなに嫉妬なんてそうそう出ない。実行している時は、むしろ行動の効果が出ないことに焦る。で、嫉妬が一番出やすいのは、立ち止っている時、何の行動もしていない時、そして気持ちに余裕がある時だ。とにもかくにも、上手に嫉妬と付き合っていきたいものである。

絶望の記憶と世界の始まり

今までの中で、大なり小なり絶望を感じた時を思い起こすと、いくつかある。

最初は小学校高学年で1回。
中学で1回。
高校で2回。
大学で1回。

少なくとも、記憶にある中でこのぐらいが思いつく。

絶望といってもそのときに感じたものは、絶望からほど遠いものもあるが、何にせよショックを受けた体験という意味では共通している。

小学校高学年時、学校単位での学級会を行った。そこで副委員長みたいな感じのものをやって、ときたま私が委員長にごにょごにょ言って、会が珍しくまとまって終了した。その後、委員長が先生にほめられた。

書いてみると、そんなごときで小学校ではショックを受けるのかと思った。でも小学校はそんなものだな。小さなことで自分の所有権を主張したものだ。そんなんで、小さな私も、先生の賞賛が本来は私が享受されるだろうと思ったのが、そのときの委員長に流れてしまったことに、少なからずショックを受けた。

かように、行動に対する評価はずれるものか、と。しかし私は取り立てそのことについて先生に告げることもなかった。

中学校は、塾に行くのが楽しかった。楽しかったは楽しかったが、勉強に意味を感じるかどうかは別だった。小学校の頃は、それなりに授業が楽しかった覚えがあるのに、中学校に行くとその楽しさが全くなくなってしまった。その小学校の時の楽しさは、塾で補完されることとなったが、中学校の授業自体に辟易した感情を拭いさることはできなかった。

どうして勉強なんかするんだろう? と、当時の私はさめざめと嘆いた。その気持ちを推測するに、その勉強がどこに役に立つのかさっぱりわからなかった、というのが表面的な理由であろう。そして、深層的な理由は、つまらない授業に納得せず受けさせられている(と自分が思っている)ことへの怒りのような気がする。

中学校の成績表は非常にクリアだった。100点成績で、五教科は90点が中間考査と期末考査の点を足して二で割って90%にした値となる。残り10%は日頃の行い点だ。
私の成績は上々だったが、そこに中学生全員の努力した結果が反映されることはなかった。原因と結果の均衡はくずれるものだと、なんとはなしに理解し始めたのも、この時期だろう。

高校に進学した。
高校は、よすぎる高校にうっかり進学したと言わざるをえない。

中学校の「なんで勉強なんか」という気持ちはますます強くなった。理由をいろいろ考えるものの、意義を見いだせないから、というのもあるが、明らかに「勉強そのものがつまらない」という不満が高いように思う。つまらないのに、他のみんなはそれなりに授業を受けているのに、どうして自分は素直に授業に受けられないんだろう、ということでも二重にショックを味わった。

しかしながら、高校で絶望した内容は違うものもある。

一つは文化祭の時だ。私が言いだしっぺで、大きな壁画をクラス全員で作ることになったが、人が集まらず進捗は芳しくなかった。

そんな折、季節はずれのあられに見舞われ、屋上で作業をしていた壁画は濡れに濡れ、文化祭まであと数日ではとてもじゃないが間に合わないかのように見えた。

あられをどこからか駆けつけたクラスメート達が一気に一斉にがんばりはじめて、結果、文化祭に完成が間に合った。あのあられの時、皆が動いてくれなかったら完成できなかっただろう。ありがとう、皆……! というようには、なぜかいかなかった。

私はその時、感謝の気持ち以上に、なんともやりきれない気持ちになった。みんなが参加したのは、天候のおかげであって、まぁ結局自分ががんばってようががんばってなかろうが、あずかり知らぬ所で物事が進んでいったことに、ショックを隠しきれなかった。

これによって、他人がどう動くか私は予想しても、その予想の内容に確信を持たないようになった。 いい意味でも悪い意味でも期待しなくなった。

こうやって考えると、本当にひとの絶望なんて、なんでそんな所で、といったような部分に陥るものだと思う。とはいえ、その時点の思想体系等からは、その反応にならざるをえなかったのだろう。

そんなんで、高校の時に感じた一つ目の絶望だ。

二つ目の絶望は、至高の極みとともにやってきた。

高校当時、私は島田雅彦に傾倒だっていた。島田雅彦は中学校の頃から毎日新聞で知ってからそれなりに興味が湧いていた。そんなこんなで、島田雅彦の本を図書館から読んでは感激していた。

なんと私の言いたかったことを言い当てているのだろうかと。

それは鋳型が見つかったような気持ちよさで、至高の幸福とも言うべきものだった。しかし、それはすぐに絶望に変わった。小説が書かれていたのは、当時で既に数年以上も前の話だ。彼の小説を読み進めていくうちに、彼の考えている内容自体は別に進んでいっていたのである。

つまるところ、私がすばらしいと思ったその彼すらも、過去の産物であって、その当時の時間軸の彼と共有できるわけではないのだ。ある同じタイミングに合わせて同じものが分かち合えるのは、ほぼ皆無に等しいどころか、1.000から1.000への真の理解は有り得ないのだ、ということに思い至った。

どうやら絶望は、今まで自分が確かだ、と思ってきたものがぶち壊される瞬間に感じるように思われる。 そして、このようなエピソードを一言で言い表すとすれば「断絶」というのがぴったりな感じがする。

大学生になった。

理系の大学で実験など大変だった。ますます勉強はきらいになってた。プログラミングのような、好きな授業もあるが、そもそもテストのための勉強というものが苦痛で、なんとかかんとかしのいでいた。他には、OBの人の会社が大学の近くにあるので入り浸っていたり、友達のバイト先の事務所が大学の近くにあるので入り浸っていたり、というような感じだった。まぁ全体的に何かしらどよんだ感じがあった。

相変わらず私は鬱屈していた。何をやっても続かないし、興味をわくことすらないことも多くある。それでいて自分が自分が、というあまりに自己本位な考え方にうんざりしていた。誇れるものも好きなものも、たいしてなかった。 ゲームはまあ好きだった。

それはさておき、注目するのはその自分本位な感情だ。無駄に、というよりかは余計にいろいろ考えすぎていた。例えば、アフリカの飢饉のことを思っては憂えたが、結局自分は何もしていないことに自分自身を非難した。

知っている人が死んだ。空虚にしか受け止められなかった。私が頭で構築している世界にいる知り合いの実装がなくなってしまったことにショックを受けて、なんて冷たい人間なんだとショックを受けた。書いてる自分が言うのもなんだが、それって悲しんでいることには変わりはないんじゃないと思うんだけれども、その当時の私にはどうやら違ったように見えた。

いちゃもんをつけるのは、昔からの得意技だ。学生の頃も相変わらずだし、自分の意見にさえケチをつけた。利己的な自分の考え方をする自己中心的な自分に対して、ずいぶん自分で自分を非難した。

なら「誰かのために」という風に方向性を変えるべきか? と仮定を作っても、結局のところそれさえも「誰かのために」と自分がおもっている自分のためにすぎない。私の中の屁理屈たれはそう結論づけて、自分自身の行き場を失わせた。それに、「あなたのことを思って言ってるのよ」というようなアドバイスに見せかけた強制は、私が一番嫌いな行為だ。

結局。
私からは逃れられない。捨てることもできない。
私から中心になって、動作や感情、意識が生じることを否定することはできない。
私自身の人生が、こんなはずではなかった、こんなつもりじゃなかった、違う時代に生まれていれば、違う世界に生まれていれば、違う所に生まれていれば、と過去仮定したとしても、そのような仮定自体すら、今現在この場所にいる私から出ているものなのだ。十数年、数十年の息づいた中で出てきた言葉であって、その積み重ねがなくては言うこともできない。今までの経験のどれ一つ欠けても、この現実はもうない。

過去仮定とは、現実を覆す行為だ。頭上の池で入水自殺を試みるようなものであって、どんなに過去仮定を考えたとしても、今現在自分が存在しないことにはそのセリフだって出まい。そして仮に過去仮定の設定が現実となった瞬間、今現在いる私は消えてなくなる。

つまり、過去仮定とは、現在の自分を否定することに他ならない。

そりゃ今の現状と異なる状況を思い描くことは簡単だ。前提条件が異なれば、きっと今の現状すらも異なるだろう。しかし。今は変わらない。 どうあがいたって変わらない。私が過去仮定が非常に嫌う理由はただ一つだ。今を受け入れてないからだ。現状を変え、結果に導くのは自分の行動のみしかないのだと、そして自分が切れる手札は今この瞬間にある手札のみだということを。

それに私は知っている。ある一面では結果がすべてということも。

私は幼少のころから小学校に行くより長くピアノを習っていたことがある。ピアノに関しては非常に出来がよく、周りからのやっかみもあった。

しかしだ、やっかみがあろうがなかろうが、私のピアノが出来には影響なかったし、私もある程度の努力はしていた。なんだかんだとさぼりつつも、平日の1時間は練習していた。そういう行動があってこそ、結果を導いていることには確かだ。行動が結果に結びつき、誰かに評価されたとき、それは実績と呼ばれるようになる。

過去仮定は、これらの実績を、そしてそれに基づく結果をすべて蔑ろに、対等に扱わない作業でもある。何せ今までやってきた自分の実績は否定し、自分にはない新しい付加価値を取り入れることが過去仮定がすることだ。しかも、ないものねだりの付加価値だ。

実績をとるか、あるはずのない付加価値をとるか。

私は実績をとった。だから、私は今の私を否定しなくなり、今の私をゆるした。否、これが今の私の最大で最小であることを認め、受け入れ、和解したのである。今のままでいいんだって。私以上に私を理解し、私以上に誰が私をなぐさめられるだろうか。一番自分の起こった事実に対して実直に考えて意見を述べることができようか? そして、今の私を好きになるようにした。その結果、今現在は自分が大好きっこだ。今までの私は私自身を拒否していたのだ。

私は私と和解し、そして絶望は少なくなった。

このような記憶を書いたのは、一つに友人のことが頭のかたすみにあった。

先日、ものすごく幸せなことと、ものすごく不幸なことが友人に同日に起こった。幸せなことはだいぶ昔から友人にあった問題の一つだった。ようやくそれが終わったと思ったら、ショッキングな事件が到来した。

そのときに、思った以上に現状に絶望していたのだと、友人は言ったのだ。それで、私も絶望について書き連ねてみた。読んでみてどうだったろうか。自分ですらもう記憶と感情がかけはなれていて、その当時感じた気持ちを思い出すことはできなくなっていた。もはや、過去の自分すら他人になりつつあるのだ。

絶望はその字の如くだ。望みが絶たれてしまう状態だ。私は友人の絶望をはかり知ることはできない。それと同じで、友人も私の絶望をはかり知ることはできまい。私は私の絶望したことに対して、誰かに共感してほしいとは思わないし、共感できるとも思わない。それより、同じ評価軸上にのぼれるものではないと思っている。残念ながら、絶望は自分だけのものであり、それ故に孤独だ。

私が友人に対して危惧したのはこの後の展開だ。

友人は自分自身の人生がドラマティックだといった。私はすぐにそれを全否定しておいた。確かに、わりと何でも素直に受け入れられる自分の中でも、友人の人生はドラマティックな方だ。それでも、私は友人が自分のことをドラマティックだと言った言葉を否定した。明らかに自分の人生の価値を固める算段を感じたからだ。

ドラマティックという言葉を用いるだけで、人生はあたかも価値のあるように見える。すばらしいような感じには見える。本当だろうか? そこに、その人生の主人公がハッピーかどうかで、ドラマティックという言葉の意味が分かれる。ハッピーならば、ドラマティックな人生を生きたと肯定的に。そうでなければ、流れに翻弄された生き方だったと半ば否定的に。

友人のドラマティックな人生はもう聞いた。解決したことは、その翻弄されたドラマティックな人生から、航海に躍り出るようなわくわくした人生に切り替えるためのものだろう。それをもう人生いっぱいでしたと、何ふざけたこと言っとんのか。

長年の問題は友人にとって大きな心を締めていて不健康だと思っていたので、それがなくなればもっといいことが広がるんじゃないかと思って応援していた。断じて「やるだけやりました思い残すことはありません」といった、終わりのための応援ではなく、「責務は果たした、さあ新しいことに向かおう!」という始まりのための応援として、手助けしてきた気持ちだ。

ドラマティックかどうかが、自分を満足させるかどうかは別であることを言いたい。その言葉に自分が満足したかどうかは寄与しているのか?

本当に自分がしたいことをやってきた人生なのか? 問題が解決して、本当に思い残すことがないというのか? 本当に、自分がしたかったことが明るみになったのか? ここで終わるのが自分の限界か?  今絶頂の幸福の中なのか?  やりきるだけでいいものか。

絶望もまたドラマティックに見えるかもしれないし、感じるかもしれない。しかしその絶望が永遠に続くわけではないし、自分から幕を引くべきものだ。ドラマティックは終わりゆくものであり、ある短期間の激動の状況を表しているだけにすぎない。その言葉自体には、残念ながら価値はない。

自分が満足したかそうでないか、それだけが自分の世界に価値を与える。

絶望の記憶で人生を終えるのか、それとも至福の記憶で人生を終えるのか、自分だったら、どちらを選び、進むのか。それだけは、自分が自分にのみ与えうる変化である。私自身もそうしてきたし、これからもそうしていくだろう。今は終わりじゃない。始まりだ。いつだって、今は始まりだ。世界は今始まったばかりなのだ。

初出:

  • 2010/01/07

Fwd: 2010/06/19 第21回GTD勉強会 レビューステップの詳細について – works4Life Season VI

 

6月は「レビューステップの詳細について」が、テーマです。

■勉強会詳細
  • 日時:2010/06/19 (土)

  • 場所:東京/大久保 ルノアール大久保店

  • 時間:15:00-18:00(3時間)

  • 定員:16名

  • 参加費用:場所代+ドリンク代です。人が集まると安くなります。

  • mixiURL:http://mixi.jp/view_event.pl?id=53835048&comm_id=3013597

今回は、前回処理ステップを実施したので、レビューステップについてです。

2010/06/19 第21回GTD勉強会 レビューステップの詳細について – works4Life Season VI

 

勉強会は今週2010/06/19開催です。勉強会勉強会イベントとかぶったのに気づいたのはリリースしてからとゆー。

レビューステップは、漫然と行うと、やった気もするしやってない気もします。

  • レビューステップって結局何?
  • レビューステップってどんなにいいことがあるの?
  • レビューステップをやった!って感じるにはどうすればいいの?

とかそんな疑問がある人は是非ご参加ください。

 

よろしくです。

GTDの持つ社員教育への将来性

2006年11月から始めて2010年の6月に至るまで、私がGTDのことを考え続けているのは、GTDに将来性があるからだ。GTDがただのタスク管理であれば、私はこんなにも興味は湧かなかっただろうし、GTDについて考えを突き詰めるのをとっくに放棄していただろう。

GTDとマネージャクラスの人々

GTDのビジネス対象となっているのは、基本的にはマネージャクラスなどの生産性の高い人々だ。 それは、彼らの生産性をより高めるためである。もちろん、そうではない人々にとってもそれなりの効果が得られる。マネージャークラスも、そうでないそれなりの人も、GTDの恩恵にあずかることができる。 それゆえに、GTDは万人に受け入れられている。

とはいっても、私がGTDが買いだと思っている将来性は「万人受け」だからではない。GTDは、それなりの人がマネージャクラスのような人々になるための、わかりやすいツールとして可能性を持ち合わせていること――これが私がGTDに将来性を感じている点だ。

会社の中で、マネージャクラスの人間に自分もなりたい!と思っている若手社員がいる。周りの彼の上司、その人の属する組織はその人に対して、どんな明解な回答、あるいはヒントを差し出すことができているだろうか?

メンバーがマネージャになるにはどうするべきか?

私が言いたいのは、GTDはメンバーがマネージャになるために、役に立つだろうツールだ、ということだ。

若手が成長してマネージャクラスの人間になるというのは、組織の役割としては、メンバーからマネージャに役割を遷移させる、というのと同じ意味合いになる。実際、この成長の間には、どんなことをして成長に結びつくのだろうか?

また、この成長する過程で、部長や課長レベルの上司から言われるヒントの言葉にこんなものがある。

  • 「広い視野を持て」 具体的にはどんな意味なのか?
  • 「長期的な考えを」 その考えに至るためにはどうするのか?

それらが具体的にどんな意味を示しているのかは、彼らから具体的に説明されることは少なく、そしてその方法について言及されることも少ない。

私自身が上記のようなことを言われてぶっちゃけ困ったのは、あまりに抽象度が高すぎて、身がなさすぎることだった。基本的に私が就職したことのある会社達は、いずれも自主性に富む、言いかえれば放任主義の会社だ。だから、そんなに教育や自己成長に対して細かい指定があったわけではない。だいたいマネージャーになった人の話を聞いてみたら、いつの間にかやってたみたいな話もある。これをすればOK!みたいな何かっていうのは見つかってないんじゃないかなと思う。

で、本屋に行ったりして、そういう風な抽象化をあげるような本やらフレームワークやらを読んでみる。確かに理論はできる。しかし血肉になるまでに、やる気と実践が続かない。今でこそわかるのだけれども、ここら辺の考えもある一定の訓練による成果だ。確かにやれば培われそうな気はするんだが、如何せん日常の一部に溶け込められない。

あるマネージャにどうやったらそういう考えができるようになったのか、て聞いたら「いつの間にか」という回答が返ってきたりもした。とすると、仕事をやってればそういう考え方もいつしか身に着くのかもしれない。

しかしである。

現状は「いつの間にか」は許せる状況ではなくなってきた。サーバがクラウド化する中で、仕事もクラウド化しつつある。昔に比べて、コミュニケーションも作業も電話やネットなど媒体が増え、仕事は複雑化している。しかも、社員が使い物になるまでの成長時間も短縮されている。彼らの言っていた「いつの間にか」の時間が、現状にはだんだんと少なくなってるんじゃないか。

そもそもマネージャの役割と作業とは?

いったん、成長後のマネージャが求められる役割と作業について見直してみた。

仕事は役割は変われども同じことだ。仕事は、ある状態からある状態へ変化するために行動する以外の何物でもない。

マネージャへ役割が変化すると、仕事の中で(1)どこをゴールとし、(2)どこからどこまでを、(3)誰に任せ、(4)任せた内容を後から確認するか、といったことを指示し、そして(5)全体のゴールに間に合わせるように調整する、といった作業が必要になる。

しかし、実際にはこれら全ての動作がうまくできる人はそうそういない。全体を見るのはうまいんだけど(5)、仕事の振り方はいまいちだったりするし(2)(3)、かといって、仕事の任せ方はきっちりしているのに(2)(3)、外部との調整が甘かったりする(4)。 すべてができる人がいても、忙しすぎる状況がそれを許さないことだってある。

新人マネージャは始めてなると、たぶん上記のような作業を始めて行う。もちろん、リーダーをこなしてそれなりにやってきたかもしれないけれど、新しい作業が思った以上のスコープで任されるのは確かだろう。マネージャになってから、マネージャの作業を学びとるのは非常にリスクが多く、できれば事前に、できるものならメンバーの立場から徐々にその訓練ができたらいいと思う。

その訓練のツールとなるんじゃないか、と思っているのがGTDなんである。

GTDはこのうち、(1)(2)の概念形成をGTDを繰り返すことによって確固たるものとし、(3)(4)をGTDのリストを作成することで把握することを学び、(5)を毎週のレビューステップを実行することで、徐々に上部から状況を見渡すことを学ぶことができる。

そうして、GTDを続けていくうちに、把握する時間のスパンが徐々に伸びる。

このような意味で、GTDは社員教育にとって将来性があるのだと、私は思っている。

GTDを実際に実行した際の問題点

しかし、上記のようなGTDを使った自然な成長は、今のところ見る限りにおいて難しく、実際導入するにはなんらかの工夫が必要なように思う。その理由のうち3つを挙げると以下のようなものが考えられる。

(1) そもそもGTDが上記のように役立つとは認識されていない
(2) 効果的なGTDを実施しなければ、上記の効果が得られにくい
(3) パースペクティブの概念を実施する必要がある

(1)について。私は実際、こういった成長を実感している一人だ。しかし、英語圏ではともかく、日本語圏内でそのように認識している人はあまり見かけない。仮にそのように成長していたとしても、本人自身が認識していないことがある。成長は、何かの承認なくして成り立たない。

(2)について。 他の人と比べて自分の認識が大いに異なることを感じることがある。その差異はどこで生じるものだろうか、とかんがえると実践方法が異なるからでは、とかんがえる。私は状況に助けられて、GTDに最適な状況にいたために、大きく成長できたと思う。そうでなければ、あの七面倒くさい作業など正しいに近く続くのは難しい。

(3) について。思考が大いに飛躍した、と思ったのがこのパースペクティブの概念のワークを実施したときだ。これをしたことによって、別々の階層の中に一つのエスカレータができあがったような気分になった。しかし、書かれているのと実際に実践するのとでは全く異なる。理論は所詮理論だ。

GTDが社員教育として効果的に稼働した後の可能性

上記のような問題点もあるが、しかしながら私はGTDには大きな可能性があるし、今後社員教育でも具体的に用いるべき方法だろう。

これが、社員の中で共通のツールとして認識されたならば、以下のようなことが実現できるのではないかと期待している。

  • 仕事に関して、共通的な考えがあるため相互理解が早くなる
  • 仕事間の枠についてクリアに話すことができる
  • 仕事のパーツについて理解しやすくなる
  • 仕事について、一律の概念を共有できるため、相互学習が可能になる
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