読書メモ 決定力を鍛える

買ったらそれで満足するのか、真面目に読む率が極端に減る。今回の本も結局ざっと読みになってしまった。もともとこの本を買ったのは、チェスのスペシャリストがどんな風な考えを持っているかを知りたかったこと。で、見直したら邦題と原題があまりにかけ離れていた。道理で見出しがいまいち合わなかったはずだ。
今回の本の収穫は以下3点。
  1. 言い方が極めて明快。
  2. 「自分の癖の意思決定を知ること」
  3. 関係ない作業はオートマ状態に

言い方が極めて明快

その人の世界は、文章から再構築される。その人が見えている世界がいかに明瞭なのか、整理されているのか、どれぐらいのフォーカスで見通しがあるのか、そういったものが浮き彫りに出る。彼の場合はクリアな世界だ。論旨に迷いがなく。言葉も具体的だ。

会社でミーティングの鬼とも言っても過言ではない人に、資料のレビューをしてもらったことがあったけれども、あれもしびれる経験だった。あれほどまでに、会合という名の複数人の話し合う場で、整理されたミーティングの時間はなかった。それと似たようなクリアさを感じた。

「自分の癖の意思決定を知ること」

最近になって、人によって言葉を確定するまでの工程が人によって具体的に異なることを薄々感じるようになった。それに至るまでの項目としては以下のようなもの。
  • 人によって分類のしやすい方法は異なる(ファイル形式、イベント形式等)
  • 人のノートは役に立たない、その人にしかわからない言葉だから via お菓子の先生
  • その人にとって似合ったセリフや言い回しは異なる。それは自分で見つけるしかない via 友人
  • 会社の仕事でクライアントが納得するまでのプロセスが、見つけるのに困難だったり、自分の方法とは微妙に異なったりして、ややこしい
  • 言ったらその内容が確定するのか、言った後に何度か繰り返すことによって確定するのか
    (私は言うこと自体が確定する意味を持つが、友人の場合はそうではなく、何度かくりかえs
  • エマジェネティックスの思考スタイルの原型はシナプスの経路ではないのか、そのシナプスの経路は人によって得意経路がすべて細かく異なるのではないのか

で、今回の彼の言によって、人によって意思決定に至るまでのプロセスはかなり細かく異なることで確定した。チェスのスペシャリストが言うのだから間違いないだろう。

関係ない作業はオートマ状態に

キルケゴール(だっけ?)の生活習慣が、周りの人間の時計変わりになっていたように、イチローの儀式が無意識にも実行できるように、心を傾けるのが無用だと思う部分にはスケジュールの通りに動くことで、オートマ状態に持っていくことが大事だとゆー。

決まった行動というのは極めて低エネルギー状態で実行することができる。なおかつ、その作業に没頭しながら、思考だけが解離でき、あたかも歩いている時に頭だけが別のことを考えることができるようになるのだ。

これを全体の時間にかけるということは、つきつめて考えるといかに規律のある状態に自分を強いることができるようにするか、である。チェスは長い試合もある。集中力をどれだけ継続するかもポイントになるだろう。これは、粘り強さを構築する手段であるのかもしれない。

決定力を鍛える―チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣
ガルリ カスパロフ
日本放送出版協会 ( 2007-11 )
ISBN: 9784140812624
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

私は私にとって「信頼できるシステム」ではなかった。

「信頼できるシステム」とは、GTDで見かける特徴的な言い回しだ。

GTDでは、GTDを実施できるシステムの条件として、信頼できるシステムというものを引き合いにしてきた。このGTDでいう所の信頼できるシステム、というのはなんというか考えを拡張できるのではないだろうか。

 

■私は私を信頼していなかった。

思えば、私は私を信頼していなかった。

その象徴として、私の心の動きは信用ならざるもので、未来に対して約束ができなかった。その結果、私は未来の概念が欠如していた。しかし、GTDで心持ちを管理できるようになって、その感情が時間的に続かなくてもいいことを知った。ヘンな言い方だけれども、「私」を時間的に微分して考えれば不合理から免れることを知ったのだ。

GTDを行うことで、私というシステム自体が信頼できるシステムへと変わっていった。そして、私はようやく外へ視線を向けられるようになったのだが。。

 

■外部に対するよそよそしさ

内部への心持ちは晴れやかに変わりつつあったものの、外部に対する心がまえはさほど変わることはなかった。

確かに昔に比べて外部に対して動けるようにもなった。勉強会はそのリハビリの一環でもあった。それでも、自分は外部に対してよそよそしいな、と私は思っていた。

たとえばそのよそよそしさは、次のような行動に現れでる。

  • その人を信用するまでにものすごく時間がかかる

そう、ものすごく時間がかかるのだ。

しかしまてよ、と思ったわけだ。なぜ、信用するまでにものすごく時間がかかるのだ? そもそも、信用するタイミングとはどういうものだ? 何がみたせばその人を信じるのだ? そもそも信じる前と後ではその人に対してどのように振る舞いが変わるのだろう?

 

■外部に対する私の方針

以前のエントリで、私のほかの人に対する指針を説明したものがある。

そしてそれはどのような行動の一つに表されるのかというと、私の場合、「相手に期待しない」という表現で表される。

「相手に期待しない」とは、例えば、友人に何か軽く「~するよ」といった時、必ず実行されなければならない、とは思わないようなことを示している。漠然とした状況で、「○○ちゃんは、私にこうしてくれるに違いない!」 というような根拠のない相手の行動に対する予想をしないということだ。上司が部下に「君に期待しているよ!」という期待とはまた異なる。

GTDでインサイドアウトの習慣を作る – works4Life Season VI

こういった他に対する確固たる方針があるにも関わらず、私はそもそも、他の人からメッセージを受け取ること自体から拒否している部分がある。ブログにしたってそうだ。コメントなどは極力ないようにしむけていたりもする。

なぜ、私は他の人からメッセージを受け取ることをなるたけ控えようとするのか? 私は考え、そして答えてみた。「なぜなら、反応が安定しないからだ」と。

その時、ふと思い出した。勉強本でインタビューを受けた時に、フリーソフトを提供していた人が「ソフトで周りからほめられることが常道だった」といった。これにはなんだか驚いた。だって、私は、何かしたらほめられるどころか挫かれる、という印象が多すぎたからだ。これが、私にとって「反応が安定しないこと」だ。

 

■外部に起こった、安定しない過去の出来事

で、昔のことを思い出したら確かに挫かれることがあった。

昔ピアノをグループ教室で学んだことがあった。別のグループに助っ人で参加することを話したらはぶられたり、グループ教室の宿題で作曲をしたら、誰かの曲に似ていると言われたり(これは真偽は微妙。なんとなく似て作ったかもしれない)、ピアノの先生の受けがよかったら周りのメンバーから無視られたり、まぁそんな感じのことが小学生の時にあった。

決定打は母親だった。小学校5年生の時、私は小学校はじめての60点台をとった時のことだった。家で私は母親に呼ばれ、アイロン台を対面にして、膝づめ談判にあった。

思いっきり泣かれたのだ。そしてアイロン台にあったテストをぐちゃぐちゃにして投げつけられた。

理不尽だと思った。

つーか泣きたいのはこっちだ。そもそも理由がわからなかった。今までテストの点数で怒られたこともなかったし、そんなにほめられたこともなかったじゃないか。ピアノの練習をさぼったならまだしも、はじめて悪い点をとっただけでこうも怒られるのは、道理にあわなかった。

と、今でならその状況を理解できるものの、当時の私は世界が破壊される以外に何の術も持っていなかったのだ。 こうして、私の世界はもろくも崩れさった。嗚呼、儚きかな。

ちなみに母親とは件のことでは、大学生の時に和解をしている。母親に謝ってもらった。しかし、この時母親はそんなことをしたことをすっかり忘れていた。……。ま、そんなもんだよね。

 

■世界への疑惑と受け取る誠実さとのトレードオフ

だいぶ脱線したんだけれども、要するに、「いいことがあったらなんかロクでもないことがあるんじゃないか」って、て昔の私は思うようになった。それから、「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」というのも思った。

そういった経緯のなか、それでも私は外部と誠実に接しようと試みていた。というのも、外部から受け取る事実は、確かに事実だ。これは、ピアノを通じて十分理解していたから、それをねじ曲げることはできないルールとうけとめていた。しかし、その事実が発する意図については予測がつかない。

そこで、トレードオフした内容が次のような方針をとったわけだ。

  • ほかの人がこうするだろう、という未来の行動について期待をしない
  • 事実は事実として誠実に受け止める
     

そこに「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」という認識があるため、その起こった状況に対しては誠実なのだけれども、そういう経験則が蓄積される時間は、他の人より極めて遅かった。それがどんなに仲良くて、気を許していたとしてもだ。その事実に気づいた時に、私は愕然とした。

 

そうだ。私は世界を信頼していなかったのだ。

 

ある人と話してある程度予測のたつ反応が返ってくるとは信用しておらず、何か求めれれば何か攻撃されるとばかりに敵対し、すべての現象は、すべて場当たりで予測不可能なものばかりだと決めつけていた。もしかしたら全員みんな敵やもしれぬなどと。

家族や友人など、近しい世界の人であっても、ちゃぶ台がひっくり返ってもおかしくはないと、私は思っていたのである。

 

■方針の矛盾

ところで、世界を信頼していない場合、どういうことになるのか?

現在のみが拠り所となる。つまり現金支払いだけが安心できて、クレジットカードはいつ抵当に入るかわかったもんじゃない、といったような具合だ。それは、私なりの誠実さでもって最大限のトレードオフだ。

しかしだ。

たとえば、あるAさんがxの時刻で信頼できるような行動をしたとしよう。そのxの時刻においては、Aさんの行動を信頼していたとする。それが何度も連続にあったとしたら、私は、いつになったらAさんを信頼できるとみなすのだ? トレードオフの方針はこの回答を含んでいなかった。

しかし、それではおかしい。世界の事実が誠実に無慈悲に在ることを理解した上で、その場その場での内容に真摯に私は受けとめていたた。そうでありながら、連続した内容になったとたんに個々の事実を誠実に受け止めないのはどういうことだろう? 「事実は事実として誠実に受け止める」という世界に対するルールに反している。それに、いくら「ひっくり返してもおかしくはない」とはいえ、そういう態度をとるにも限度があるだろうが。

世界を信頼していないから? 違う。何か別の理由があって、私はAさんを信頼できるとみなしていない。外部を誠実とするなら残るのはただ一つだ。原因は私だ。Aさんを信頼する以前に、私は私を信頼していなかった。

だから、私の発する言葉は、クレタ人のごとくに、信用ならざるものだった。それゆえ、私がAさんを信頼するという言葉にも信頼しないという言葉にも、私自身が信じることができなかったのだ。

なんということだ。私が世界を信頼していなかったことすら、私が私を信頼していなかったことの鏡だったとは…

 

■エマジェネティックスの信頼できる空間

私はエマジェネティックスのアソシエイト研修のことを思い出した

あの研修は、私の経験の中でも不思議な経験の一つだった。ほぼ初対面の人ばかりだったのに、わたしはエマジェネティックスのプロファイルを経由して、信頼できる空間にたたずんでいた。

エマジェネティックスのプロファイルがあったから、ある程度の参加者の傾向がわかっていた。みんなコンセプト型を優勢に持っているからちょっとはみ出した行動をしてもそんなにびっくりしないだろうと思った。

私がそんな風に思ったこと、振る舞えたことこそが、エマジェネティックスの可能性を見いだした瞬間だった。この空間が、再現できるものなら、私はおおいに協力したいと。

そう、あれは信頼できるシステムとして機能していた。

 

■エマジェネティックスの研修が信頼できるシステムとして機能していた理由

しかし、参加者のプロファイルがあるからといって、あの研修自体が、私にとって信頼できるシステムになったわけではない。

確かにエマジェネティックスのプロファイルは信用している。しかし、信用できるシステムが、信頼できるシステムに変わることができるのは、使う側のたった一つの振る舞いだ。

 

それは、委ねることだ。

 

信用できるシステムは、予測可能な事態に対して決まった対応をしてくれるというシステムとみなしている。信頼できるシステムは、さらにそこに、多少の不測の事態があるとしても、その事態を受け止める心意気が使う側にあることだ。

たとえば多少の失敗はあったとしても、それをなんとかのりきってくれると、使う側は信じ、システムがそれに応えた時、信用できるシステムは信頼できるシステムへと進化を遂げる。

 

■私が信頼していないということは?

私が世界を信頼していない=私は私を信頼していない=私は私の言葉を信頼していない、という話をしてきた。

信頼できるとは、不測の事態も受け入れる、つまりリスクを取るというのなら、私は、私が起因で不測の事態に起こりうることを避けている、ということになる。不測の事態は、おそらく私にとって、「いいことがあったらなんかロクでもないことがあるんじゃないか」とか「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」とかなんだろう。

私の判断基準で動いたことが、私を不測の事態におとしめて傷つく原因になることを、私はおびえているのだ。確かに昔傷つく原因になるようなことが多数あった。私は意識して行動していなかったこともあるだろう。また、それらについて対処できるとも私は自分自身をみなしていなかった。

しかし、今は違う。あの頃とは、多分の経験も培ってきたし、自分なりに自分の制御方法も見つけてきた。無作為に自分は行動しているわけではあるまいし、自分のまわりがひどく不測の事態になるほどでもないとも経験則的に理解している。

 

パーツは揃った。

 

そろそろ気づいてもいい頃だろう?

 

 

いったい誰が私を攻撃するというのだ。
いったい誰が私を物理的世界から脅かすというのだ。
不測の事態があるからといって何だというのだ。
簡単な話だ。
飲み込むだけでいい。
そして吐き出せばいい。
お前は無分別になんでも取り込まなくてもいいことを知っているじゃないか。

 

誰も、お前の精神を蝕むものはいない。
あるとするならお前自身だ。
世界だって、結局のところお前の作った感情で赤にも青にも彩られる。
すべてはお前次第だ。
お前が世界を信頼するなら、信頼できる世界になるだろう。
たった一つ、お前がお前を信頼するならば。
自分自身に不測の事態があったとしても、それを受け入れ乗り越える心意気があるならば。
お前はお前のすべてを手に入れられるだろう。

 

 

 

 

私は、いっそすがすがしい程に、私を、私の言葉を、私の行動を、信頼していなかった。

「自分の好きにするのは難しい」

この前、その筋では有名な方と帰路を共にした。その時にGTDの話になって、私はGTDだったら自分の好きにできるところがすきなのだという話になった。その時、言葉を噛み砕くようにその人が言ったのが掲題の言葉である。

私はそれを聞いて、随分不思議に思ったものだ。彼のような、有名で実績もあり、端から見れば彼の好きにやっているように見える人でさえそう思うものかと考えると、である。人によって、自分の好きなように動かない部分は異なるものだ。彼にも彼の信じるものがあり、しかしながら世界に花開かぬものがあるのだと、この世は広いのだと感じた。

GTDの話に戻そう。私がGTDが好きなのは、私の意志を曲げることなくそれを実践することができるからだ。GTDはフレームワークと言われる通り、単なる骨組みであって、こういう考えを持ちなさい、といった思想は含まれてない。これは、GTDを確立する時にDavid Allenが最も気をつけた、とどこかで聞いたことがあるから確かなことだろう。

では、どの部分が自分の意志を曲げなくてもいいのか? 時間管理でよくあるのが、この時間に作業を決めてやろうというものだ。作業する時間ぐらいすきにさせろや、と私は思うものである。また、優先度を決めろという。優先度を決めたって、どの作業をするか決めるのに寄与しないじゃないか(これはある意味正しくある意味正しくない)。

時間管理は、一言で言えば不愉快だった。しかし、何が不愉快なのかがいつもわからずにいたのだ。GTDをやるようになって理解したことだが、時間管理は、私にとってはその仕事をその時間内に終わらせることを無意識的に約束することになるからだ。少なくとも、私にとって時間を取り付けるとは、そのようなことを指し示す。つまり、どんな問題な状況があろうが、それができることを見越して時間を約束したのだから、守れないわけがない、と。そして、本来はここからが大切なのだが、時間管理は、私がそれを納得しているしていないに関わらず、約束を交わしていたのである。そしてこの勝手に約束を取り付けられていることこそが、私のもっとも不愉快なことだった。

GTDはその無意識的な約束から解放してくれた。

このような無意識的に約束する範囲は人によって微妙に異なる。 人によってこの時間的な認識は異なるものだし、それが許容できるかどうかはまた異なるものだ。

確かに彼の言うとおり、「自分の好きにするのは難しい」。いつまでたっても、私の愉快な世界にたどり着くまでには程遠く、あらゆるところで理想とは異なるものの、現実の辛酸を舐めるほかないときもよくあることだ。そんな不愉快な世界から解放されるためには、理想など放棄すればよいのだ。そうすれば、不愉快に思う基準もなくなる。

それでも私は理想を捨てたくはなかった。ここに手と足と口があり、外部に向けて動くことができるのに、なぜ不愉快な現状に納得せざるを得ないのだろうか? 年を重ねて自分の理想に近づくための方法が増えるようになった。行きたい場所があり、いくための方法を見つける手段も出揃いつつあり、向かえる足があり、道具を使える手があり、ゴールを見据える目がある。それでも行き着く場所に行くまでには困難な道のりなのかもしれない。

自分の理想に辿りつくのは難しい。

初出:

  • 2009/11/10

「inboxはランドリーボックスの様なもの」 via 東京GTDオフ会の感想など #gtdjp

オフ会の中で参加者の皆さんに色々と質問させて頂いたのですが、その中で「皆さんのinboxってなに?そもそもinboxってどういう位置づけ?」と、素朴な質問を投げかけてみました。
収集するツールとしては、デジタル、アナログ様々でしたが、そのやり取りの中で出てきた「inboxはランドリーボックスの様なもの」という比喩は、改めてGTDの本質を表す良い表現だなと感じました。
ランドリーボックスには、家の中にある汚れ物が全て集められる必要があり、靴下とYシャツは別の場所に入れたり、その中に入れ忘れがあったりすると混乱してしまいます。
とにかく、一度全ての汚れ物をランドリーボックスに入れてしまうことが重要なんですね。

一般人の日常の中でGTDが最も適用されている部分があるとしたなら洗濯のプロセスだと私は思ってる。これをタスクやらにも応用させようというのがGTDのアイデア。

GTDは新しいことを行う過程のように見えるけども、実際は、異なるのでは。自分が知ってる中で一番負荷がかからないやり方に揃える行為なように思う。

Posted via web from 私的言語

タスク管理とスケジュール管理は分けた方がいいのか→場合による。

時間が決まっているもの、決まっていないもの 私自身はやってみたことがありませんが、私の「タスクシュート方式」の煩雑さを嫌ったある方が、「全てをGoogleカレンダーでタスク管理するのはどうでしょう?」とおっしゃっていて、それを実践されていました。Kazumotoさんが提案されていたのと全く同じ方法です。

ところが、実際にはその方は、1日足らずで破綻しました。この方法では、「9:30メールチェック」「10:00ブログを書く」というやり方になりますが、「10:00になってもブログを書く気になれない」場合、対処が煩雑になるのです。

引用元: 「予定」と「タスク」 – ライフハック心理学.

上記で言われる「予定」と「タスク」は、GTDでは「カレンダーリスト」に収まるものと、「次のアクションリスト」に収まるものとになる。上記の記事の起因のなった問題は下記のとおり。こういった疑問から、記事の書かれた方はスケジュール管理をすることになったという。

・スケジュールとタスクを分けて考えるやり方は、本当に分けて管理する必要があるのか?

・どちらか一方に統合して仕事を回す方が意識が分散しないで済むのではないか?

・詳細で膨大なタスク処理&管理ばかりに気を取られると、常に仕事に追われているような気になりはしないか?

・いつの間にか「タスク管理」を仕事と勘違いしてしまわないか?

・「期日」というものへの意識が薄れて大きな失敗を犯す可能性があるのではないか?

・慣れ親しんだ時間割方式で考えた方が理にかなっているのではないか?

等と考えたわけです。

引用元: Find the meaning of my life.: タスク管理とスケジュール管理を分ける必要があるのだろうか?.

私は、『仕事全般』について、上記の疑問のうち、以下について、自分なりの考えをまとめてみた。

慣れ親しんだ時間割方式で考えた方が理にかなっているのではないか?

私の考え→場合による。

仕事の状況は人でも異なり、その人の状況によっても異なる。なので、どのタスク管理方法が一番最適なのかは、毎度の状況によって、最適なタスク管理方法が異なる。スケジュール管理がうまくいくのは、だいたい見積もり通りの時間で、タスクであれスケジュールであれ、消化可能な場合である。さて、どういったことで状況が異なってくるかは、以下のような要素が絡んでくる。

  1. 時間が決まった仕事量
  2. 作業が決まった仕事量
  3. ランダムに受け取る仕事の頻度とその仕事の種類
  4. 受け取る仕事の経路(メールとか電話とか)の種類
  5. 人とコミュニケーションをとる仕事量
  6. 自分が受け持つ全体の仕事量
  7. 仕事が完了するまでの平均時間

例えば次のような状態なら、スケジュール型のタスク管理は効果を発揮するだろう。

  1. 時間が決まった仕事が多く
  2. 作業が決まった仕事が多く
  3. ランダムに受け取る仕事は少なく、あったとしても作業が決まった仕事であり
  4. 受け取る際は、ある一人からで固定してて、なおかつ頻度もわかりきっており、
  5. 作業する際には、自分一人で行う作業が多く
  6. 仕事量としては定時に帰れるぐらいの分量だ。
  7. だいたいの仕事の完了する時間は平均していつも数日やかかっても1週間ほどだ

昨今では、上記のような仕事状況が、年単位どころか数ヶ月単位で変わってしまう。その状況に最適なタスク管理方法を毎回探す必要が出てくるだろう。

そして最終的には以下の条件が全体に関与する。

込み入ったスケジュール管理自体に苛立たないかどうか

上記の理由で、私は、どんな状態でも、スケジュール管理をすることが難しい。

初出:

  • 2010/06/22

HBRR: 2010/07 顧客資本主義の時代

会社自体が、顧客資本主義を全うするならば、そのCEOも顧客資本主義を全うすることができる。なぜならば、会社自身がその方針を打ち出しているのだから、CEO個人のみがその主義を全うすることに、外部から不満を受け取ることはない。それは、株主からに対しても、である。

株主主義と顧客資本主義は、会社に対して短期的効果と長期的効果のいずれを重視するかと同等の方針になる。

会社が顧客資本主義ではなく、株主主義である場合どんなことが生じるだろうか?

一つにCEOの活動方針に影響する。仮にもし、その時期の株主に最大効果を与えることが、彼らの報酬に寄与するならば、彼らは現時点での利益増幅に余念がないだろう。自分の任期以降の会社の状況には省みず。

もし、自分の勤める会社自体が、株主に対して言い訳するのに余念が無いと知ったならば、私はがっかりだ。会社のリソースを、彼らに対する言い訳を作るのに使うのは、合理的ではない。それ自体は会社についても株主についても、双方の利益に全く寄与するわけではない。それ以上に、会社のひいてはCEOの志の低さに辟易する。自分のしてきた仕事に、自信はないのか、と。言い訳を考えるのは、その自信のなさの表れだと考えるからだ。

そんなわけで、株主主義はあんまりいい効果を出すとは思えない。何より、流通のラインから考えれば、当然のことだろう。会社→顧客→会社→株主、という経路を通って株主の利益は注がれるのに、最後の三番目の矢印に注力を注いだって意味がない。一番目の矢印が順当に実現してこそ、三番目の矢印が発露するものだ。

会社にはいいときも悪いときもある。CEO及び会社自体は、その状況に応じて自分自身ができる限りのことをするしかない。その行動には、残念ながら株主の報酬と直接関与することはできない。

レビューステップの役割の一つ via GTD勉強会 第21回 ~レビューステップ~ 2010/06/19【Δρακοντια Lifehacker’s Kingdom】

また、ツールと現状のズレを修正するのも、週次レビューの役割だと言及されていました。「同期」を取るということです。これは上司と部下の関係においても同様だそうで、上司への報告と自分の作業のズレを無くすために定期報告を行うように心がけるといいそうです。たまに逐次報告を求めてくる上司の方がいらっしゃいますが、それは「同化」しようという行為に近く、あまり心地良いものではないのですけどね。
以上を踏まえてくると、週次レビューのタイミングというのは自分のサイクルとして確立しやすい間隔の合間ということになります。ズレが大きくなりすぎる前に、一息が付けるタイミングでといったところでしょうか。これまでの自分はサイクルを大きくしすぎる傾向があったので、もう少し仕切り直しやすい間隔を見付けられるようにしたいと思います。

レビューステップの最初のイメージを説明するのになかなかいい言葉がなかったんだけれども、最近は「同期」という言葉をよく使ってます。

勉強会でこのレビューで説明に使ったのは、元サッカー選手の中田選手の背後振り返り回数。1試合で50数回とかそんな回数で見直した、とどこかで見たことがあったので。
で、彼は背後振り返りによって、メンバーや相手の選手の立ち位置などの認識を現状にあわせなおして行動してるってことで。

Posted via email from 私的言語

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