Category Archives: Drafts

よき師とは

the magician
Creative Commons License photo credit: Eddi van W.

私はGTDを誰かに伝える時に指針としているものがある。

勉強会の時は、私も誰かに教わる立場であり同等の立場だと思って、「GTDについて説明する、紹介する」といった言葉で表現している。これは表面上の話。

それとは別に、心情の中では、誰かがGTDを理解してもあるには自分の知っているGTDを正確に伝えることが大切であると思っている。そのために、私が伝える場合においてできることは、GTDを正確に伝えることが各個人に対して各々最大効果が得られることだと思っている。その最大効果を得るための指針として、以下を掲げている。

  1. 自分の教えることについて、レベル間と成長モデルを持っている
  2. 自分の教えることについて、できることとできないことの際を知っている
  3. 相手に関する全てを全面受け入れる
  4. 相手の重要な気づきに対して、「そうそれだよ!」という認定が正確にできる
  5. 相手の抱える問題について、上記の基準で判断できる
  6. 相手の抱える問題について、最適な質問や回答等のアドバイスを行うことができる
  7. 相手の状況に合わせて、適切な量の情報を与えることができる
  8. 相手の状況に合わせて、最適な課題や最適な質問を与えることができる
  9. 自分の教えることについて、相手に合わせた内容を伝えることができる
  10. 相手が自分の補助なくして、その後相手は成長し進むことができる

質問をするだけで、相手の気づきを促せられ、そこに補足説明ができるのがベスト。ひとつでも、「あ、そうか!」と感じさせることが、私が理想とする、伝える側の役目である。

説明する側が、最初に陥りやすいのは、言いすぎること。私も勉強会の最初によく陥ったことだが、あれこれも説明したい!と思って全部伝えると、相手が飽和状態になって、結局本当に頭に残ってほしいもの、というのが残っていないことがある。

ここから蛇足。

最終的に一番すばらしいと思うのが、話した内容はともかく、「だからアレなんでしょ」という言葉で、その時間が終わった後も、長らく頭に残って再生されることである。 なので、最近私が気にしていることの一つに「余韻」というものがある。最上を目指すならその「余韻」=心地よい、がピークになることを目指せばいいと思う。しかし、継続を目指すなら「余韻」=不満、を持たせるのが最適だとも思う。

非常に落ち込むまでの経緯と、それを解消するにはどうしたらいいか

最近、といっても数ヶ月以内の話。非常に落ち込んだ時がある。そして珍しく、落ち込んだ瞬間をとらえることができ、そこに至るまでの経緯をなんとなく理解できた。

そして理解できた途端、本来落ち込んだ内容とは別に、理解した内容自体に落ち込んだ。なんつーの、ショックを受けたことにショックを受ける、みたいな。

■落ち込む瞬間の感覚と、そこに至るまでの経緯

落ち込む瞬間の感覚は、例えば「足下を掬われる」といった比喩に近い。そしてそこに落ち込むまでには、段階を踏んだ。

残念ながら、私の落ち込むプロセスは、ミルフィーユのように重なって発生するもののようだ。最初はひっかき傷、次に少し深くなって、その次に抉られ、最終的にはのっぴきならない状況に追い込まれるといったような感覚だ。その傷は、些細な行動や小さな情報の積み重ねだ。ただ、それが重なるタイミングが、あまりに悪い。

そしてのっぴきならなくなった時に落ち込み、そして落ち込んだ瞬間には、私はどうして落ち込んだのかがわからないが、落ち込んでいることだけは理解するのだ。

これが私の落ち込み方のようだ。そしてこの、ただひたすらに嫌なことが積み重なったことこそが、私が落ち込んだ時にすぐには、ほかの人には説明しずらい理由だとも思った。

■落ち込んだ状態を解消するには

さて、落ち込んだのは仕方がないとして、次に落ち込みをなくすためにはどうするか? 私の場合、自分で一番得意な方法をとる。つまるところ分解で紐解くことだ。

最初は、どんな具体的なことが落ち込ませる原因に落ち込んだのかを考える。

落ち込んだ状況をトラッキングできた状況を思い出すと、落ち込む要因となった具体的なことは、様々であり、そしてそれぞれに脈略とかそういったものはない。しいていうなら、私が少しでも落ち込む原因となりうるものだ。

「なぜそんなことで落ち込むの?」と考えたところで仕様のないものばかり。いつもは気にならない親知らずがしくしくし始めたと思ったら、昔の嫌なことを思い出してブルーになったとかそういう類のものだ。

落ち込みを解消させる暫定対応としては、ひもとき、そこに至るまでにどんなことを思い出したのかを正確に思い出す。私の場合。

あとは、しばらくしたら霧散するのは知っているから、寝たりして、感情が自然とニュートラルに戻るのを待つ。

まぁそんなとこ。

■解消のポイントは、別の価値を見つけること

ところで、解消のポイントは「分解する」ことじゃない。解消のポイントは、自分が得意な方法で、別の価値を見つけることだ。

私の場合は、分解対象、観察対象として「落ち込む状態」を正確に読みとることで、別の価値が生まれている。

これが以上にうまく働いているのは芸人やらネタを必要とする人間だ。どんなに苦労しても失敗しても、それがネタになるかどうかを考えることで、価値のないと思われた出来事に、価値ができる。

このように、人によって見つける価値は異なる。まずは、自分の好きなことに関連させられるか考えるのが一番てっとりばやいんじゃないかなと思う。

例えば、通常ありえない状況での本番状況の練習になるからといって、風邪になった状態でも練習しに先生の家に来たと言うピアニストだったかバイオリニストだったかがいたなぁとか。

他にもついてる!と思う絶好のタイミングだと考えるとか、ブログのネタにできるとか、悲劇のヒロインごっこができる最高のタイミングだとか。

今自分がしている何かと、落ち込んだ状態とを、ひもづけること――こうすることで、落ち込むことすら糧となる。

初出:

  • 2010/08/09

「時は流れず」読書ログ

時は流れず

(1)
私たちの考えている過去や未来といったものは、それは単に思考の産物である。時が流れているわけではない。時が流れている、と私たちが感じているだけにすぎない。

という要旨にいたく同意。

(2)
過去は変えられぬもの、と知っていながらも、すでに点数が理論上では変わらないのにも関わらず、テストの点数がわかるまで、やきもきしたり、いい点数でありますようにとお地蔵様に願ったりもする。私たちがそう願う対象は、過去そのものではなく、過去が作られる過程に対してなのである。

という要旨にも納得。

(3)
他我問題。簡単に言うと、あの人はこう考えてるんだよ、と軽い気持ちで他人の気持ちを憶測するその行動は、なぜするのかどうしてできるのかなどを真面目に意図や意義を考えること、と今のところ理解している。

***

(1)
私は過去についてはとりわけ考えることはなかった。今回のように、著者が懸念していた、「過去は本当に実在するのか」ということを考えたことがないぐらい。

「もし過去が~だったら」というようなことは、私もむかしはよく考えていたのだけれども、それを考えると、今の現状をすべて無に返すことになるのを知ってやめた。やめたのは、過去仮定もそうであるし、過去に希望振り返ることなども含む。もしくは過去に恨みを合わせることも。

私は過去に対していい意味でも悪い意味でも憧憬が少ない。過ぎ去った過去について、ひどく「ああすればよかった」「こうすればよかった」と過去シミュレーションしすぎることはない。その一方で、「あの時は本当にこうで楽しかったよねー」という気持ちにもあまりならない。

未来や過去は、概念の中から形成されるものとは、私自身も経験している。とりわけ、私は未来の概念がなかった。今でこそわかっていることだが、未来は、今現在がある程度安定しており、ある一定のルールに従っていることを経験した結果、未来への可能性を想定することができる。

ここで言うある一定のルールとは、たとえばある仕事がある時系列の作業に従ってゴールまで導かれた、といったようなことだ。何度もその道をなぞることで、私たちはその流れというものが、あるものだ、と存在を疑うことがなくなった時に、未来への道が開いた。

実際昔の私の今という状況は、安心ならないものだった。考えがころころと変わるものだから、おいそれと簡単に約束はできなかったりするのだ。今に振り回されている限りにおいては、未来など見えぬものだ。

(2)
過去物語への気持ちを寄せることは、私もある。卒業試験の結果前は、すでに決まっているでろうが、明るみでない結果に対してやきもきしていた。 過去が作られるとは言え、そこに採点のブレがなくもない(チェックシート式なら話は別だが)。ただ、自分が関与している状況ではないのだから、影響力の度合いが格段に違うのだろう。たぶん、自分が関与するのと、関与できないのとでは、100と0.00001もしくはそれ以下の度合いで。

(3)
他我問題も。先ほどの過去現実未来が考えることによって存在するならば、他我問題自体も、考えることによって存在するのに帰着するのではなかろうか。過去は、「自分」が経験した内容に基づき、再現しようと試みる方法であって、再現する要素の元となるものが異なるだけと考えてもいいのではないのだろうか。過去と自分以外の誰かの要素の違いは、精度の違いとみなして。

信頼できるシステムとは

1.それに対して受け入れていること

敵意を持っているシステムに対しては、信頼はしていない。自分を妨げるものとして認識しているために、自分にとって信頼できるシステムではない

2.それらに対して自分自身と関係性があると継続して認識できること

敵意を持っていないシステムにしても、まずは自分と結びつきがあることを意識していること。しかも尚且つ、継続的にその意識ができること。

継続的に意識ができるできないの要素は異なる。例えば、この文字列が無味無臭で自分自身のものではないように感じるまでの時間は、人によって万別だ。

3.それらに対してどう刺激を与えればどう反応できるか返ってくることを知っていること

自分とそのシステムとに対して特定の因果律が生じており、システムの反応が自分にとって予想範囲内、予想外だったとしても対応可能範囲な範疇であること。

4.それらに対して、あらゆる局面において経験を持ち合わせること

何か例外的な処理があったとしても、そのシステムに対して対応できること

5.それらに対して、自分がこうしたいと願った場合に、そのやり方を安易に創造できること

コントロール範囲の拡大。

そしてこれらは、自分の認識する世界に対してについても、行われている。

Posted via email from 私的言語

初出:2010/06/23

インタフェースが思考する分量を決める

iPhoneを使うようになって、ひしひしと感じているのはインタフェースによる無意識的な意識の制御だ。インタフェースによって、頭が振る舞いを変えようとする。例えばGmailを使う際がそれが顕著に出た。

 

GmailをウェブブラウザとiPhoneとで使うと

Gmailは今までウェブブラウザを経由して使っていた。その時は画面が広くて、返信したりするのに億劫だった。画面を開くのもそうだし、多少の時間のラグも面倒くさいという気持ちになって当然だと思うことを応援する始末だ。それがインタフェースが悪いとは言わないが、ウェブブラウザのGmailの画面は、私をして、億劫がらせるのである。

ところがiPhoneを使うようになって、GmailもiPhone経由で見るようになった。そうするとどうだろう、今まで面倒だった削除作業も、なぜかiPhoneは軽やかになる。

 

iPhoneは画面が小さい、その分、思考も小さい

iPhoneは画面が小さい、だから、思考をするのもそれに相応する分量で思考する。要するに決断が速いのだ。ウェブブラウザから見る手紙では、もうちょっと取っておこうという気持ちが、iPhoneではその気持ちをふんわりと置く場所がない。その結果、私はウェブブラウザ上で決断するよりも早く、iPhoneでは不要なメールを削除することができる。とても不思議である。

 

インタフェースが思考する分量を決める

昨今は携帯やスマートフォンが主流だ。twitterも流行っている。情報の粒度が小さく、そしてその流れは速い。ノイズの数は多く、ややもすれば何でもかんでもその情報から自分の形成させることは可能だ。媒体に合わせて思考もそれに合わさるものだ。理を合わせる合理的なように。

 

私は携帯やスマートフォン、そしてtwitterに関して何らかの危惧を感じる時がある。それは一体なんなのか、とかんがえると、この思考の粒度のはじけっぷりのような気がする。

GTDを始めたのも、この思考のはじけっぷりに我慢がならなかったというのがある。多量の情報がありながらも、それをうまく取りまとめられず、上下左右に引きちぎられ、あまりに自分の所在なさに。これらの媒体は、そういった、はじけていて、まとまりをこちらが考える必要のある情報を、提供しがちだ。流れるプールのように、それにたゆたうのもよいかもしれない。しかし、それらは流動的な情報体だ。この固の情報体に蓄積していくには、それで本当に十分なんだろうか。分断される思考で、十分に、深部に、深く、自分自身に関わることができるのだろうか、と。ふと、そんなことを思う。

 

思考にも錬成は必要だ。そのためには、外部からシャットダウンし、内部のソーシャル性を高める必要がある。そして、長期的スパンの思考を考えることは、この作業をできるかどうかが、深くかかわってくるように思う。

ある計測の違和感

最近カウントしようよ、という話がよく出てくる。ものは試しとし始めてみるのだが、どうにも性に合わない。だからといって、自分自身が計測しないわけではなく、何かしらどうにも頭をウンと下げることができないことがあるのだと最近気づいた。

 

理解できる計測と、ざわざわ違和感の感じる計測

例えば、理解できる計測とはこんなものがある。

  • 自分はどれだけ費やしたのかという、現状を確認するための計測
  • 自分はどれだけやったのかという、現状を確認しやった感を感じるための計測

 

しかし、これだけはどうにも心のうちがざわざわとし始めるのである。

  • 自分はどれだけ費やしたことによって、目標値に達したのかというための計測

これは、目標は計測可能な数値を設定するという話からそれるようにも思われる。しかし本当だろうか?

 

違和感の計測は結果としてなった数値ではなく、努力した数値を目標達成の評価値とすること

 

自分が、設定をする時に、絶対にやる気が起きないタイプの計測がある。それが、見出しの計測値である。

これは、製品1000個のうち完成した製品個数がどれぐらいかを計測値とするのではなく、製品1000個を費やすのにどれぐらいの時間を費やしたのかを計測値とするようなものである。英語で1000時間勉強して英語がペラペーラになることを目標にするのが、最たる例だ。

もちろん、1000時間費やして英語がペラペーラになる人もいるだろう。しかしそれは、費やした時間の中身によって異なる。

この中身によって結果が異なるのに、それを目標を達成した計測値として取り扱うのがどうにもいけすかんのだ。その目標達成ができたからといって、目的を満たすわけではないと知ってるだけに。

 

目標は、目的を達成するための具体的なゴールを用意する。しかし上記の設定では、目的を達成できない可能性がある。だから、その目標に同意することが、私には首肯しかねる。だって、それで目的が達成できると確信できないのに、どうして納得することができようか。これが、私のある計測に対する違和感の正体だろう。

 

それでも努力した数値を目標達成の評価値とする理由

この違和感理解しつつも、それでも努力した時間を目標値に捧げるのも理解できる。必ずしもではないが、実際に目標達成する場合もあるからだ。また、必要最低限の時間は、やっぱり必要だからだ。

そして、その目標達成したとみなす何かは、必ず計測時間以外の何かしらである。これは間違いない。

 

 

 

 

自分コメント:

  • どうして盲目的に実行できないんだろうかという嘆き

「自己」とは分かつもの

 

「自己」とは、単一のもののように見える――「私は私」ではないか。しかし実際には、自己の感覚は、脳のどこか1つの領域で作られているわけではなく、脳全体に張り巡らされたニューロンの広大なネットワークに支えられている。つまり私とは、「場所」というよりは「プロセス」なのだ。

「見知らぬ他人妄想」と「脳の中のゴースト」 | WIRED VISION

 

私の一番の不思議は、数十年後たった今、昔の活動を自分自身が行ってきたという確信じみた考えである。

何をもってその記憶を自分自身が行ってきたのかと保証するのか、実際のところはわからない。

しかし、私はこの数十年、生きながらえつづけてきたことはたぶん確かであるのであるが。

動物から進化を遂げた人間は、いいかえれば大昔はそのような自己意識はなかった。しかし、進化を遂げた結果、身体に現れる反応を操作するための機能、つまり私というものが形成された。

文中でもある通り、私とはプロセスである。

コギトエルゴスム、とは、まさにこのプロセスのことを指しているのであり、考える瞬間しか自分自身を感じることができないことを言っていることだと私は理解している。それ以外の何も考えていないときの自分の不完全さ。無意識に息をし続けるこの個体を、私は「私」と言い切ることができるのだろうか。

自己はある一つと思われるが実際のところ、統一したルール配下で、人間一個体で実現することは甚だ難しい。しかし、そういったルールの矛盾を生じつつも、合理的な不合理によってつじつまを合わせる。

このつじつまを分断してひとつの体に二つのつじつまを作ることがある。これが二重人格の正体であると思っている。

二重人格は自己を防衛するための、恐ろしい防御機構だ。今まで地続きだった世界を、防御するためだけに、見えない壁を作って、世界を隔たせることができるのだ。しかし複数の防御機構(人格)を作ろうとすると、それらのバランスを取ろうとする人格が現れ出るのは、なんとも不思議な光景である。

二重人格でなくとも、別のつじつまを作ることも可能かもしれない。私が思い立つのは、ガラスの仮面の狼少女だ。北島マヤは人を絶って生活することで、体で反応するようになった。仮の話なので実際それが可能かどうかはわからないが、話として作ることができた時点で、できる可能性は高い。

北島マヤはともかく、二重人格は乱暴に言えば、外部からの刺激による結果だ。反対に統一するためにはどうしたらいいのか?

それは、繰り返し訪れ、半ば記憶され、半ば予見していく必要がある。「自己」とは残りゆくものだ。彫刻が彫ることでその完成体を見つけられるように、自己もまた削られることでより完成体へと近づくことができる。

削るとは何か?それは、外部ではなく内部の自分が何かを自分自身で選ぶことにより、自分の持ついくつかの可能性を捨て、ある一つの可能性を延期させることだ。

自己とはいったいどこで発露しうるものか。差分であり違いであり異なりでありdiffであり分かつものである。同じならば、名前など必要ない。同じならば、意識する隙間すらない。

 

初出:2010/12/17

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