Monthly Archives: 7月 2010

モチベーション3.0とは何か? – 『モチベーション3.0』にまつわるエトセトラ

モチベーション2.0仕様ではじめたやることリストの紙運用

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メモ やる事リスト (11485006) via kwout

最近私はGTDのネクストアクションを、上記のやることリストに書いて管理している。始めた当初は、以下のようなルールで始めた。
 

最近やることリストでやってること。 – works4Life Season VI

 

 
つまるところ、ごほうびを設けることによって、モチベーション向上を図ってみたわけだ。
最初はうまくいくかのように思えた。しかし、メモの紙が10枚20枚たまっても、私はうまくごほうび運用がまわらなかった。どうしてうまくいかないんだろう? と思い、うまくいかなかった理由を考えてみた。
  • そもそもごほうびとして何枚消費したかの管理が面倒
  • ごほうび買いが私にまったく習慣がない

もともと管理が面倒だろーな、とは理解しつつはじめたら、その後どんだけ使ったかを管理するのが面倒になってしまった。またごほうび買いも、買いたいタイミングをうまく見出すことができずに、ごほうびは1回使ってしまっただけに終わった。しかも上記右下にある枕に使ったわけでもない。

 

1枚終わるたびにごほうび1000ポイントゲットという、ごほうびポイント運用は失敗に終わった。しかしこのメモリストを、私は未だ使い続けている。

 

モチベーション2.0仕様がなくなったやることリストの紙運用

ごほうびポイント運用のなくなったやることリストは、シンプルなリスト運用になった。8つ終わったら次の紙。たったそれだけだ。たったそれだけなんだけど、このやることリストのメモを今は使い続けている。なぜだろう? と思い、このリストのよいところを考えてみた。

  • 8個で1枚終わるので、気が楽
  • 区切りがよい

よいところを考えてみたところ、出てきた印象は、区切りのよさだった。やることリストは区切りがよい。歯切れがいい。8個終わったら、その紙は終了。やった感が、非常にわかりやすく表現されるのだ。それに、いつも新鮮な情報しかないので、その点においてもまだやる気が続く。

たったそれだけのことなのに、ごほうびもなく、どうして続くのだろうか?

 

これが、モチベーション3.0を考える、最初のはじまりだ。モチベーション2.0は、人は怠け者で仕事をするなんて嫌だから、アメとムチを使ってやる気を出させよう、というものだ。しかし、それで人をやる気を出させるには限度がある。モチベーション2.0以上にやる気を出させるものは何か、それがモチベーション3.0だ。

 

報酬があっても全くやる気になれない。どうして自分はこうなんだろう?――そういう人には、とっておきの本だ。答えがそこにある。

 
 
 
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか
ダニエル・ピンク
講談社 ( 2010-07-07 )
ISBN: 9784062144490
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

GTDのInbox範囲は自由自在

 

すべての Inbox がなくてはいけないというわけではないのですが、少なくとも「自分が気にしている」ものが外部のシステムにキャッチされていないと、いずれすべては忘却されてしまうということを示していると言えそうです。

アップルの Mac OS X が成功しているひとつの理由に、写真のすべては iPhoto、音楽はすべて iTunes といった具合に人生において需要の高い情報の集合ごとに見事なアプリが存在することがあげられます。

そして手帳を見事に活用している人には、手帳への依存の仕方がうまいというのか、ちょうどよいバランスで手帳に支えてもらっている人を多くを見かけます。

この考え方はどこまで拡張することができるのでしょう?

不安や焦りを受け止める受信箱がなければ心は壊れてしまうということもいえるかもしれませんし、家族のできごとを記録する受信箱がなければ絆に綻びが生じるということもいえるかもしれません。

自分の受信箱がどこにあるのか? それは機能しているのか? それを知ることは、あるいは自分の人生の舵取りで大きな意味を持つのかもしれません。

あなたの Inbox はどこにある? 人生に必要な「受信箱」について

 

Inboxに入れる『物』の範囲

Inboxに入れる『物』の範囲、というのは私の中でも前々から議題にあがったことのある一つだ。で、現状の結論は以下のとおり。

自分の好きな、気になるものを入れればいいよ

人によって、気になることは、本当に異なる。例えば机の冊子が整然と並んでなければ気が狂う人もいるわけだし、反対に整然しすぎる空間があまりに発狂しそうだと思う人もいる。人が、快適だと思う理想の状態は、変わる。

 

じゃ、今の私の『物』の範囲はどうかというと、次のとおり。

思い浮かんでから、それが形になるまでの経過

これをGTDのステップに当てはめると、処理ステップにあたる。この処理ステップの部分を延々と繰り返し、自分なりの結論を決める。以前、私は私のことがよく分からない、と書いたことがあった。この「気になること」というのは、その私を理解するための大切なプロセスなんだろうと思う。

というような話を以前に書いていたのを思い出した。

 

『物』の範囲のひろげ方の違い

で、Lifehacking.jpさんでは、Inboxをどちらかというとコンテキスト別な観点で、どこにあるかを見ている。私の場合は、プロセス的な観点で、広げている。例えば、「それはまだどうにかしたいものではないだろう」といったような状態から拾い上げるといったようなものだ。

こういった、Inboxの範囲をどこまで広げていいのか、ということすらGTDは自分の裁量で決めることができる。GTDのことを、私は「無味無臭で伸縮自由な杖」だと言うのにはそういう理由からだ。Inboxの範囲を広げようが、GTDの理論は私の中でまだ破綻していない。

 

 

ちなみに、私がプロセス的な観点で広げちゃってもいーや、と思っているのには、GTDには以下のような考えをもっているから。

 

最初のInboxの範囲は、仕事のタスクから

とはいっても、最初から広がりすぎると、その後の処理ステップとかがこんがらがるので、最初は仕事のタスクだけをInboxの範囲にするといい。それから、仕事のタスク→仕事のアイデア→家のタスク→家のアイデア。。といった風に、徐々に広げるのがいいよ。

 

私も最初は仕事のタスクしかInboxの範囲にしませんでした。

違うな、タスクしかInboxの範囲にできませんでした。

「“市場価値”を悟ったエリートの悲哀と希望」の記事から思うことをつらつらと

「可能性がなくなるっていうのは、結構しんどい。気がつくと組織にしがみついている自分がいてね。若い時にはそういう上司たちを見て、格好悪いなぁと思っていたのに。トホホですね」

先日、経営者層を対象に「生きる力の強い部下の育て方」なるテーマで講演した後の懇親会で、大手広告代理店の部長という男性が苦笑しながら、こう漏らした。

“市場価値”を悟ったエリートの悲哀と希望:日経ビジネスオンライン

可能性を見いだせなくなって、手が出なくなることは私自身よくある。人生全体を覆いかくすような切羽詰まった感までに至らないまでも、まぁがんばってもなんだか効果ないなぁと思うと、本気でやる気をなくして生きるのにばかばかしくなることがある。

というような思うところもあったりしてちょっとまとめておく。

著者と50代の感じた”市場価値”ショック

著者の感じた”市場価値”ショックと、50代の感じたそれとの違いを端的に表そうとすると、例えばこんな風になるかもしれない。

著者の感じた”市場価値”ショックは、市場価値が、過去の実績があまり寄与していないこと
50代の感じた”市場価値”ショックは、市場価値が、未来の変化が見込めないこと

この二つは大いに異なる。過去と未来とで否定される場合、どちらがのしかかってくるかというと、未来の方だ。

未来への可能性がないのは、何よりも心理的に厳しい。変化が見込めないこと、自分がどんなにがんばっても効果がないことは非常に恐ろしい。まるで自分が透明人間のようになって、そこに存在しないかのような気になってしまうからだ。効果を打ち消す手法を用いた拷問があるらしいぐらいだから、その恐ろしさは計り知れない。

「未来」とは?

何が損なわれると未来がない、と思うのだろうか? 長い目でみればそれは伸びしろであり、短い目でみれば効果、もしくはフィードバックだ。

伸びしろは、たとえばテストで言うなら100点が最大で95点をいつでもピークしているようなものだ。これ以上点数を上げるにしてもあと5点しかなく、また95点を保ち続けるのにも労力がいる。そうでなくても70点台を取る面子が90点台に台頭して気持ちは焦るばかりだ。

効果は、化学的な見かたでいうなら「刺激と反応」のうちの「反応」にあたる。効果の大なり小なりはあるけれども、最終的な一番小さいものを見れば、「反応」と私は考えている。ここでいう効果は、わりと短期的なものを示す。50年代は今までの効果の振りが大きかっただけに、小さな効果では物足りない、満足が得にくいのかもしれない。

この「効果」を見出すことがなければ、今後続ける理由が見いだせない。50年代の”市場価値”ショックは、この「効果」のなさの小さな積み重ねと「伸びしろ」の大きな将来の断絶のダブルショックを受けて、ますますやる気が削げてしまうのかもしれない。

”市場価値”ショックの隠されたショック

50年代の”市場価値”ショックには、隠されたショックがある。

今自分が所属している会社以外の他の市場では役に立つかどうかわからない。こんなに培ってきて、自分ではそれなりの価値を認めているのにも関わらず、である。それは「俺は、結局、組織の中でしか生きられない」という言葉に集約されている。それはある意味当然だ。何せ他の「市場」でどれほどの価値が自分にあるのか、調べていなかったからだ。

それだけではない。今はまだ会社にいるから「市場価値」はある。だが、定年後はどうだろう。「市場」そのものから場外を言い渡された後、自分の価値とは一体どのようなものが残りうるのか? そこに存在価値は存在するのだろうか? 延命措置は可能だろうか?

今まで上昇するばかりのジェットコースターで、前は霞で覆われていて、落下切り返しポイントは見えなかった。それが今になってようやく前の霞が薄くなり、先が見え始めつつある。

ジェットコースター上の落下切り返しポイントは免れない。そもそも落下切り返しポイント上にレールがあるのかという疑問は残っているが……

ハーバードビジネスレビューの関連ありそうな論文

ハーバードビジネスレビューで思い出した論文があったのでそれを記述しておく。

ハーバードビジネスレビュー 2010年2月の「リーダーシップ講座」でもその周辺に関して言及されている。

ハーバードビジネスレビュー

40~50年代というと、HBRではマネジャークラスにあたるので、そこのジョブクラスに関して言及されている。「アタマ打ちのマネジャーの活性術」では消極的になった彼らの再活用方法について、「中年期マネジャーの心得」では、状況の説明とそれに対する本人と組織が取り組むべきことについて言及されている。

後、効果に関して、仕事が充実した系の記事がどこかにあったはずなんだけど忘れてしまった。

それ以外に思い出した本

備忘録。「可能性がなくなる」ことの終着駅は「自分に存在価値がない」ことだと思う。その感情がうまく表現されていたはずの本ということで、思い出した。

自分コメント

  • 論旨がつかめなくなった
  • ちなみに30年代のジェットコースターは、木造なみの危険さです。そもそも折り返し地点までもつかどうだか。。
  • というか建築物の耐久度合いがまんますぎる。

嘘を見破るドラマ「ライ・トゥー・ミー 嘘は真実を語る」は明日の7/26月曜日、23:55からスタート!

 

ここ最近のドラマで私が一押しと言うならこのドラマ。表情や無意識の動作や表情―微表情―から感情を、そして嘘を読み解く男、カル・ライトマン。ライトマン・グループを設立し、FBIや国防総省からの依頼で問題を解決していきます!

ケーブルテレビのFOXで、明日から第1話が開始されます。

このドラマは4月に一度放送されてて、とっても夢中で見てた。また公開されるらしいから、是非とも見てほしい! 魅力は満載なので、いくつかをピックアップして紹介します。

 

感情を読み取り嘘を見抜くという要素

嘘と言えば「ライアーゲーム」を思い出します。ライアーゲームは、戦術としてハッタリや嘘や真実を紛れ込ませてどこが本当の道筋なのかを見つけたくなるところに面白さがあると思います。

「ライ・トゥー・ミー」もまた事件のために誰が嘘をついているのか、そしてどこでそれを見破るのかが楽しいところです。といっても、「ライ・トゥー・ミー」の場合は、演出がうまいので、どこで主人公のカル・ライトマンやライトマン研究所のメンバーが見抜くかがわかりやすく描かれています。

 

「24」で培った演出の妙

表情や無意識の動作や表情、特に彼らが読みとる表情はテレビ中では微表情と呼ばれていて、要するに非常に小さなシグナルです。このドラマでは、その小さなシグナルをフォーカスさせるのが非常にうまい! それがとっても格好よく表現されているのが流石演出といったところです。

それから表情の説明部分についても流石だなぁといったところ。「侮蔑」「憤慨」といったような表情は種族が異なれど同じだと、このドラマでは説明します。それを証明するように、説明する際には実際の著名な人間の表情を持ってきて、語らずして説得するとゆー。ホントうまい。

 

動作の多いカル・ライトマン(ティム・ロス)

このドラマの成功した理由の一つは、ティム・ロスの主人公カル・ライトマンの演技でしょう。

主人公のカルは、無駄そうな動作が何故か多い。他のキャラクターが普通な動きをするだけに、特にその妙な動作がどうにも目につくのです。例えば列に並んでいる時に、上半身を直角90度並みに傾けたり。普通そんな動作しねーよ! と思うわけなんですが、かえってそれが、他の人以上に人間臭さを醸し出しています。

この現象は不思議でした。というのも、演技している人は人間臭くしているので当然人間臭いと思ってたんですけど、カルのそれ以上の動きがあると、「ああこれは、計算された動作なんだ」と思いだしたのです。通常はカル以外の動作で普通なのでしょう。しかし実際はもっと非線形でランダムな動作が人間にはあるんだ、と思い出さずにはいられません。

多分恐らく絶対誓って、図ってこのような動作をカルはしていることでしょう。

 

後半以降が「24」の腕の見せ所

「24」は、1話1時間だったので、24話が1シーズンと長めでした。で12時間で一旦の話がまとまって、残り12時間で後半戦に持ち込む話の構成になってます。

今回の「ライ・トゥー・ミー」もその2ターム構成が微妙に反映されているみたいな感じで面白いです。前半戦は、微表情の読み方の紹介がメインです。後半戦は、微表情が読めるようになったら、次は見る側の予測範囲が微妙に広がってるんですねー。

まぁしてやられたって感じです。脚本うまいなー、ですヨ。13話の構成度合いっぷりに乾杯ですヨ。ま、そんな感じで後半戦も楽しみ三昧です。

 

シーズンラストの終わり方

これから始まるのに今から最終話の話かよっていう感じなんですが、これがもー、額を打つ程の終わりっぷりに、私は言葉も出ません。いやいや今からそんなもったいないネタバレなんてしませんが、とにもかくにも格好良すぎ、これで終わりですか終わりなんですかと、キリのタイミングの絶妙さに悶え狂いそうでした。

いや本当に。

マジで。

 

というわけで、ケーブルテレビなんだけど、見れる人は是非ゼヒ見てほしいというドラマの紹介でした。

 

補足

なお、FOXのサイトでは『ライ・トゥー・ミーを100倍楽しむためのワンポイント心理学講座!』が展開中です。

情報の食べ方

Wikipediaにはこのように書いてあるけれど、俺はGTDって多少違う意味で理解してる。

GTDがすばらしいのは、「タスクリストのフレームワーク」としては
ほぼ、完成された仕組みである事。
Emperorは永遠に不滅です:タスクリストのすすめ

つまり、もっともよくできた、タスクリスト処理システムだって言いたいんだ。

via Emperorは永遠に不滅です:GTDを再構築する – livedoor Blog(ブログ)

上記のブログでは、GTDはタスクリスト処理システムだと説明されていた。この考えは私は同意。ただ、GTDをタスクリストと制限するのはちょっとつまんない。

タスク⊂情報

タスクは情報の一形態。その情報によって、誰かが何かをしなければならない、と行動を促すもの。

タスク⊂情報

GTDは情報処理システム

となると、タスク処理システムは、情報処理システムと言い換え可能なんじゃないかなと思う。

Inboxの中身は海のものとも山のものとも

私は、この情報処理システム、という言い方がとてもすっきりする。というのも、一番初めにデータが集まるInboxは、そもそも海のものとも山のものともわからない「物」ばかり。この時点で、そこに集まっているのはタスクかどうかすら疑わしいものだってある。そういう意味でも、GTDをタスク処理システム、と限ってしまうのはとても合わないんじゃないかなぁと思う。

口→食道→胃→十二指腸→小腸→大腸

GTDを情報処理システムと、大きくとらえた時、一番イメージが合うのが食べ物を消化するシステムだ。

食べ物は、口に入り噛み砕かれて一部は唾液によって消化される。次に食道を経由し、いくつかが消化される(なんだったかは忘れた)。で、その後も順に各器官を経由して最後には食べ物はすっからかんに消化される。

そんな食べ物の消化の仕組みであるが、特徴を表すと3点ある。

  1. 食べ物は、分化する
  2. どの器官が何の栄養素を消化するかは決まっている
  3. どんな食べ物でも作業は変わらない

この食べ物の消化のしくみなのだが、GTDと似ていないだろうか?

収集→処理→整理→レビュー→実行

さてGTDである。GTDは5つのステップから成り立っている。

「物」は分化する

食べ物の場合、分化は一つのものが複数に分かれ、その結果一つずつの大きさが異なるという意味で使っていたつもりだ。

GTDでは食べ物のかわりとなるのが「物」である。「物」の場合、分化はその「物」が何かを明らかにすることになる。丁度処理ステップの一つ目の手順がそれにあたる。処理ステップではいつでもどんなものでも、「それは何?」と問いかけることから始まる。「物」はゴミなのか、それともただの資料なのか、はたまた見果てぬ夢なのか、自分にとってそれは何なのか、どんな関係性があるのかを明らかにする。

どの処理が何を明確にするかは決まっている

食べ物は、たんぱく質はここで吸収して消化、とか決まっている。栄養素によっては、複数の器官で消化吸収することもあるけれども、青年期になると、単糖は小腸で消化吸収することに変わりました、とかそういうことはない。

GTDでは処理は各ステップでやることは決まっている。決まっているからこそステップ毎に分割できたとも言えるがとにかく決まっていて、だいぶなれましたのでレビューステップはなくなりましたとかそういうことはない。

物によっては、消化の必要のない器官だってある。GTDの5つのステップも、食べる情報量によって、機能する必要のないステップだってあるだろう。

GTDを習得した人になると、見かけは収集だか処理だかやってんのかわかんない状態に見えるかもしれないけれども、「物」に対する5つのステップは必ず行われている。多分。

どんな「物」でも作業は変わらない

GTDでは「物」がどうであってもこの5つのステップは必ずこのサイクルを実行する。

そんなわけで、GTDは情報消化システムと言い換えてもいいと思う。

情報を食べるとは?

GTDをタスクリスト処理システムから情報消化システムにイメージを膨らませた。膨らませたはいいけれども、情報を消化するってどういうことなんだろう?

情報を消化する、ていうのは情報を食べることだ。むしゃむしゃもぐもぐ、これは人間が食べ物を食べるのと同じイメージだ。ただ、食べ物は体の食べ物で、情報は心の食べ物になる。

例えば、私は友人の結婚式を控えている。私はそれに参加するので、参加するまでの準備が必要だ。電車のチケットを取ったり美容院に行ったり、祝儀袋とピン札も用意しないとだし、いろいろすることがある。
こんな風に一つの情報「友人の結婚式」からすべきことを洗い出すのも情報の食べ方の一形態だ。

例えば、以前に私はマインドマップの本を読んだ。その時思ったのはマインドマップの使用方法とは別に、マインドマップの誤解のされ方を思い出した。マインドマップの肝はどちらかというと連想であって、イメージを丸で囲むのはイメージを固形化させるのでマインドマップの本来の目指すべき形ではないのだなと理解したり、でもマインドマップの真の理解は現実では異なっていて誤解を受けやすいところはGTDとも似ているなと思ったりし、それをブログでまとめた。

これも本という情報の食べ方の一形態だ。

それ以外にも、情報はいろいろな形で現れる。本などの自分以外が出力したものでもあったり、自分が思いついたことでもあったりする。自分自身がそれを消化しやすくするには、ある一定の順序に従って消化作業を行う。それがGTDの5つのステップなのだと思う。

意味を広げる理由

GTDの意味をわざわざ抽象的に広げるのには、もちろん意味がある。今は取り扱っているものが自分のやるべきことのみだから、タスクリスト処理方法、なんて言葉に表されている。

いいたいのは、GTDという考え方っていうのは、結構いろいろ応用がきくんだってこと。自分がひろげさえすれば、無尽蔵に広がりそうだって。

初出:

  • 2007/11/7

自分コメント

  • ほったらかしで早3年。

読書メモ 決定力を鍛える

買ったらそれで満足するのか、真面目に読む率が極端に減る。今回の本も結局ざっと読みになってしまった。もともとこの本を買ったのは、チェスのスペシャリストがどんな風な考えを持っているかを知りたかったこと。で、見直したら邦題と原題があまりにかけ離れていた。道理で見出しがいまいち合わなかったはずだ。
今回の本の収穫は以下3点。
  1. 言い方が極めて明快。
  2. 「自分の癖の意思決定を知ること」
  3. 関係ない作業はオートマ状態に

言い方が極めて明快

その人の世界は、文章から再構築される。その人が見えている世界がいかに明瞭なのか、整理されているのか、どれぐらいのフォーカスで見通しがあるのか、そういったものが浮き彫りに出る。彼の場合はクリアな世界だ。論旨に迷いがなく。言葉も具体的だ。

会社でミーティングの鬼とも言っても過言ではない人に、資料のレビューをしてもらったことがあったけれども、あれもしびれる経験だった。あれほどまでに、会合という名の複数人の話し合う場で、整理されたミーティングの時間はなかった。それと似たようなクリアさを感じた。

「自分の癖の意思決定を知ること」

最近になって、人によって言葉を確定するまでの工程が人によって具体的に異なることを薄々感じるようになった。それに至るまでの項目としては以下のようなもの。
  • 人によって分類のしやすい方法は異なる(ファイル形式、イベント形式等)
  • 人のノートは役に立たない、その人にしかわからない言葉だから via お菓子の先生
  • その人にとって似合ったセリフや言い回しは異なる。それは自分で見つけるしかない via 友人
  • 会社の仕事でクライアントが納得するまでのプロセスが、見つけるのに困難だったり、自分の方法とは微妙に異なったりして、ややこしい
  • 言ったらその内容が確定するのか、言った後に何度か繰り返すことによって確定するのか
    (私は言うこと自体が確定する意味を持つが、友人の場合はそうではなく、何度かくりかえs
  • エマジェネティックスの思考スタイルの原型はシナプスの経路ではないのか、そのシナプスの経路は人によって得意経路がすべて細かく異なるのではないのか

で、今回の彼の言によって、人によって意思決定に至るまでのプロセスはかなり細かく異なることで確定した。チェスのスペシャリストが言うのだから間違いないだろう。

関係ない作業はオートマ状態に

キルケゴール(だっけ?)の生活習慣が、周りの人間の時計変わりになっていたように、イチローの儀式が無意識にも実行できるように、心を傾けるのが無用だと思う部分にはスケジュールの通りに動くことで、オートマ状態に持っていくことが大事だとゆー。

決まった行動というのは極めて低エネルギー状態で実行することができる。なおかつ、その作業に没頭しながら、思考だけが解離でき、あたかも歩いている時に頭だけが別のことを考えることができるようになるのだ。

これを全体の時間にかけるということは、つきつめて考えるといかに規律のある状態に自分を強いることができるようにするか、である。チェスは長い試合もある。集中力をどれだけ継続するかもポイントになるだろう。これは、粘り強さを構築する手段であるのかもしれない。

決定力を鍛える―チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣
ガルリ カスパロフ
日本放送出版協会 ( 2007-11 )
ISBN: 9784140812624
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

私は私にとって「信頼できるシステム」ではなかった。

「信頼できるシステム」とは、GTDで見かける特徴的な言い回しだ。

GTDでは、GTDを実施できるシステムの条件として、信頼できるシステムというものを引き合いにしてきた。このGTDでいう所の信頼できるシステム、というのはなんというか考えを拡張できるのではないだろうか。

 

■私は私を信頼していなかった。

思えば、私は私を信頼していなかった。

その象徴として、私の心の動きは信用ならざるもので、未来に対して約束ができなかった。その結果、私は未来の概念が欠如していた。しかし、GTDで心持ちを管理できるようになって、その感情が時間的に続かなくてもいいことを知った。ヘンな言い方だけれども、「私」を時間的に微分して考えれば不合理から免れることを知ったのだ。

GTDを行うことで、私というシステム自体が信頼できるシステムへと変わっていった。そして、私はようやく外へ視線を向けられるようになったのだが。。

 

■外部に対するよそよそしさ

内部への心持ちは晴れやかに変わりつつあったものの、外部に対する心がまえはさほど変わることはなかった。

確かに昔に比べて外部に対して動けるようにもなった。勉強会はそのリハビリの一環でもあった。それでも、自分は外部に対してよそよそしいな、と私は思っていた。

たとえばそのよそよそしさは、次のような行動に現れでる。

  • その人を信用するまでにものすごく時間がかかる

そう、ものすごく時間がかかるのだ。

しかしまてよ、と思ったわけだ。なぜ、信用するまでにものすごく時間がかかるのだ? そもそも、信用するタイミングとはどういうものだ? 何がみたせばその人を信じるのだ? そもそも信じる前と後ではその人に対してどのように振る舞いが変わるのだろう?

 

■外部に対する私の方針

以前のエントリで、私のほかの人に対する指針を説明したものがある。

そしてそれはどのような行動の一つに表されるのかというと、私の場合、「相手に期待しない」という表現で表される。

「相手に期待しない」とは、例えば、友人に何か軽く「~するよ」といった時、必ず実行されなければならない、とは思わないようなことを示している。漠然とした状況で、「○○ちゃんは、私にこうしてくれるに違いない!」 というような根拠のない相手の行動に対する予想をしないということだ。上司が部下に「君に期待しているよ!」という期待とはまた異なる。

GTDでインサイドアウトの習慣を作る – works4Life Season VI

こういった他に対する確固たる方針があるにも関わらず、私はそもそも、他の人からメッセージを受け取ること自体から拒否している部分がある。ブログにしたってそうだ。コメントなどは極力ないようにしむけていたりもする。

なぜ、私は他の人からメッセージを受け取ることをなるたけ控えようとするのか? 私は考え、そして答えてみた。「なぜなら、反応が安定しないからだ」と。

その時、ふと思い出した。勉強本でインタビューを受けた時に、フリーソフトを提供していた人が「ソフトで周りからほめられることが常道だった」といった。これにはなんだか驚いた。だって、私は、何かしたらほめられるどころか挫かれる、という印象が多すぎたからだ。これが、私にとって「反応が安定しないこと」だ。

 

■外部に起こった、安定しない過去の出来事

で、昔のことを思い出したら確かに挫かれることがあった。

昔ピアノをグループ教室で学んだことがあった。別のグループに助っ人で参加することを話したらはぶられたり、グループ教室の宿題で作曲をしたら、誰かの曲に似ていると言われたり(これは真偽は微妙。なんとなく似て作ったかもしれない)、ピアノの先生の受けがよかったら周りのメンバーから無視られたり、まぁそんな感じのことが小学生の時にあった。

決定打は母親だった。小学校5年生の時、私は小学校はじめての60点台をとった時のことだった。家で私は母親に呼ばれ、アイロン台を対面にして、膝づめ談判にあった。

思いっきり泣かれたのだ。そしてアイロン台にあったテストをぐちゃぐちゃにして投げつけられた。

理不尽だと思った。

つーか泣きたいのはこっちだ。そもそも理由がわからなかった。今までテストの点数で怒られたこともなかったし、そんなにほめられたこともなかったじゃないか。ピアノの練習をさぼったならまだしも、はじめて悪い点をとっただけでこうも怒られるのは、道理にあわなかった。

と、今でならその状況を理解できるものの、当時の私は世界が破壊される以外に何の術も持っていなかったのだ。 こうして、私の世界はもろくも崩れさった。嗚呼、儚きかな。

ちなみに母親とは件のことでは、大学生の時に和解をしている。母親に謝ってもらった。しかし、この時母親はそんなことをしたことをすっかり忘れていた。……。ま、そんなもんだよね。

 

■世界への疑惑と受け取る誠実さとのトレードオフ

だいぶ脱線したんだけれども、要するに、「いいことがあったらなんかロクでもないことがあるんじゃないか」って、て昔の私は思うようになった。それから、「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」というのも思った。

そういった経緯のなか、それでも私は外部と誠実に接しようと試みていた。というのも、外部から受け取る事実は、確かに事実だ。これは、ピアノを通じて十分理解していたから、それをねじ曲げることはできないルールとうけとめていた。しかし、その事実が発する意図については予測がつかない。

そこで、トレードオフした内容が次のような方針をとったわけだ。

  • ほかの人がこうするだろう、という未来の行動について期待をしない
  • 事実は事実として誠実に受け止める
     

そこに「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」という認識があるため、その起こった状況に対しては誠実なのだけれども、そういう経験則が蓄積される時間は、他の人より極めて遅かった。それがどんなに仲良くて、気を許していたとしてもだ。その事実に気づいた時に、私は愕然とした。

 

そうだ。私は世界を信頼していなかったのだ。

 

ある人と話してある程度予測のたつ反応が返ってくるとは信用しておらず、何か求めれれば何か攻撃されるとばかりに敵対し、すべての現象は、すべて場当たりで予測不可能なものばかりだと決めつけていた。もしかしたら全員みんな敵やもしれぬなどと。

家族や友人など、近しい世界の人であっても、ちゃぶ台がひっくり返ってもおかしくはないと、私は思っていたのである。

 

■方針の矛盾

ところで、世界を信頼していない場合、どういうことになるのか?

現在のみが拠り所となる。つまり現金支払いだけが安心できて、クレジットカードはいつ抵当に入るかわかったもんじゃない、といったような具合だ。それは、私なりの誠実さでもって最大限のトレードオフだ。

しかしだ。

たとえば、あるAさんがxの時刻で信頼できるような行動をしたとしよう。そのxの時刻においては、Aさんの行動を信頼していたとする。それが何度も連続にあったとしたら、私は、いつになったらAさんを信頼できるとみなすのだ? トレードオフの方針はこの回答を含んでいなかった。

しかし、それではおかしい。世界の事実が誠実に無慈悲に在ることを理解した上で、その場その場での内容に真摯に私は受けとめていたた。そうでありながら、連続した内容になったとたんに個々の事実を誠実に受け止めないのはどういうことだろう? 「事実は事実として誠実に受け止める」という世界に対するルールに反している。それに、いくら「ひっくり返してもおかしくはない」とはいえ、そういう態度をとるにも限度があるだろうが。

世界を信頼していないから? 違う。何か別の理由があって、私はAさんを信頼できるとみなしていない。外部を誠実とするなら残るのはただ一つだ。原因は私だ。Aさんを信頼する以前に、私は私を信頼していなかった。

だから、私の発する言葉は、クレタ人のごとくに、信用ならざるものだった。それゆえ、私がAさんを信頼するという言葉にも信頼しないという言葉にも、私自身が信じることができなかったのだ。

なんということだ。私が世界を信頼していなかったことすら、私が私を信頼していなかったことの鏡だったとは…

 

■エマジェネティックスの信頼できる空間

私はエマジェネティックスのアソシエイト研修のことを思い出した

あの研修は、私の経験の中でも不思議な経験の一つだった。ほぼ初対面の人ばかりだったのに、わたしはエマジェネティックスのプロファイルを経由して、信頼できる空間にたたずんでいた。

エマジェネティックスのプロファイルがあったから、ある程度の参加者の傾向がわかっていた。みんなコンセプト型を優勢に持っているからちょっとはみ出した行動をしてもそんなにびっくりしないだろうと思った。

私がそんな風に思ったこと、振る舞えたことこそが、エマジェネティックスの可能性を見いだした瞬間だった。この空間が、再現できるものなら、私はおおいに協力したいと。

そう、あれは信頼できるシステムとして機能していた。

 

■エマジェネティックスの研修が信頼できるシステムとして機能していた理由

しかし、参加者のプロファイルがあるからといって、あの研修自体が、私にとって信頼できるシステムになったわけではない。

確かにエマジェネティックスのプロファイルは信用している。しかし、信用できるシステムが、信頼できるシステムに変わることができるのは、使う側のたった一つの振る舞いだ。

 

それは、委ねることだ。

 

信用できるシステムは、予測可能な事態に対して決まった対応をしてくれるというシステムとみなしている。信頼できるシステムは、さらにそこに、多少の不測の事態があるとしても、その事態を受け止める心意気が使う側にあることだ。

たとえば多少の失敗はあったとしても、それをなんとかのりきってくれると、使う側は信じ、システムがそれに応えた時、信用できるシステムは信頼できるシステムへと進化を遂げる。

 

■私が信頼していないということは?

私が世界を信頼していない=私は私を信頼していない=私は私の言葉を信頼していない、という話をしてきた。

信頼できるとは、不測の事態も受け入れる、つまりリスクを取るというのなら、私は、私が起因で不測の事態に起こりうることを避けている、ということになる。不測の事態は、おそらく私にとって、「いいことがあったらなんかロクでもないことがあるんじゃないか」とか「人の感情はいつひっくり返るかよくわからない」とかなんだろう。

私の判断基準で動いたことが、私を不測の事態におとしめて傷つく原因になることを、私はおびえているのだ。確かに昔傷つく原因になるようなことが多数あった。私は意識して行動していなかったこともあるだろう。また、それらについて対処できるとも私は自分自身をみなしていなかった。

しかし、今は違う。あの頃とは、多分の経験も培ってきたし、自分なりに自分の制御方法も見つけてきた。無作為に自分は行動しているわけではあるまいし、自分のまわりがひどく不測の事態になるほどでもないとも経験則的に理解している。

 

パーツは揃った。

 

そろそろ気づいてもいい頃だろう?

 

 

いったい誰が私を攻撃するというのだ。
いったい誰が私を物理的世界から脅かすというのだ。
不測の事態があるからといって何だというのだ。
簡単な話だ。
飲み込むだけでいい。
そして吐き出せばいい。
お前は無分別になんでも取り込まなくてもいいことを知っているじゃないか。

 

誰も、お前の精神を蝕むものはいない。
あるとするならお前自身だ。
世界だって、結局のところお前の作った感情で赤にも青にも彩られる。
すべてはお前次第だ。
お前が世界を信頼するなら、信頼できる世界になるだろう。
たった一つ、お前がお前を信頼するならば。
自分自身に不測の事態があったとしても、それを受け入れ乗り越える心意気があるならば。
お前はお前のすべてを手に入れられるだろう。

 

 

 

 

私は、いっそすがすがしい程に、私を、私の言葉を、私の行動を、信頼していなかった。

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