Yearly Archives: 2010

本当にしたいことって何だろう?

Workers' Movement Memorial
Creative Commons License photo credit: Fab Ski Girl

まずはしたいことのリストを自分の目に触れさせることができること。

ここまでが大きな壁だ。というのが今までのお話。

内より出ずる敵

人が、自分自身が本当にしたいと願い、それを実際に自分が実現し体験し、尚且つもその実現を人生のうちで何度も行うこと――これが、私の中で至上の自分のしたいことだと、思う。今のところ。

したいことがしたいこと、だなんて、好きな人が好みです、みたいな感じだ。

しかし、これを実際に行うとなると、やる気の問題以外にもいろいろな心の障壁が自分自身からも現れ出るのだ。

例えば。

それは自分にとっては場違いなしたいことであり、身の程を知れ!とか。

そもそも身の程を知るにしても具体的に何がどう相応しくないのかはわかりもしないのに、私の誰かはそんなことを言う。

例えば。

それを自分が達成できると思っているのか、夢見物語も甚だしいとか。

達成できるも何も、明らかに達成できない(例えば試験であるなら年齢制限だとかの)要因がこれっぽっちも出ていないのに、そんなこと言うことこそが現実性を伴ってない夢見物語なことを、私の誰かはそんなことを言う。

例えば。

一つでも達成できれば御の字なのにそれをいくつも達成しようとはおこがましい!とか。

「おこがましい」とは、「差し出がましい」「未練がましい」などの意味で「身の程知らず」という意味。とにかく、基準を出されぬままに棄却されるのは、納得がいかない。理由にもなっていないのに、私の誰かはそんなことを言う。

例えば。

本当にそんなことをして楽しいと思ってるの?とか。

来たな私の最大の敵。なんで君は水を指すのかな。ようやく私はまわりと信頼関係を構築し始めているのに、君はそんなに私の邪魔をするのか。そうだよ、私はそんなことをして楽しいと思っているんだ。

などなどだ。

そんな内側から出てくる感情を説き伏せ、なだめつかせ、撒き散らして対抗しながら、私がしたいという感情を雪玉のように転がして大きく育たせていく必要があるのだ。

感情は、かくも脆弱で、かくもすぐに霧散してしまうのだから。

とにかく、上記のような障壁を越えて、私はしたいと思う。

何も行動をしていないのに、否定するのは腹立たしい。

さて。好物を見つけ実現することは難しいと、話した。

一つは、好物がわかりにくいから。もう一つは、認めるのが難しいから。

私はこういう心持で生きることは、楽しいと思っている。他の人にも同じような気持ちを持ってくれるときっと楽しいと思うので、いくつかのアプローチを行いたいと思う。

一つは、私が好物だと思っていることを公開すること。それは私にとってどんな意味があり、どういう風に好物たらしめているのかを説明する。そうすることで、誰かが自分にとって好物かどうかの指針やユースケースになればいいと思う。

もう一つは、私がプレイフルだと思っている活動のログを公開すること。バイオロジーという購買をテーマにした本がある。この中で、ミラーニューロンというニューロンが購買するのに大きく関与している話があった。

買い物する脳

ミラーニューロンとは、簡単に言えばまねてみたい、コピーしたいという欲求をつかさどるようなものだ。つられあくびや、誰かがしてたら自分もやりたくなったり、そういう衝動の源は、このミラーニューロンに大きく関わっているのだという。

私もミラーニューロンよろしく、楽しそうでやってみたいと誰かが思うようになったらと思って公開する。単に見てみて~!という話したいだけという部分もあるけれども、そういう意図も含まれてるってこと。

自分にとって、あなたにとって、本当にしたいことって何だろう?

私はわがままなのかな? それでもいいや。

本当にしたいことって何だろう?(1/2)

'Tis the Season
Creative Commons License photo credit: JuditK

今私は仕事をしていて、時たま旅行に行ったりしてワクワクドキドキするようなことを時たま実行している。

仕事は好きだ。けれども、ヒマすぎるのも勘弁だし、忙しすぎるのもそれはどうかとも思う。

仕事は好きだ。でもかりそめだ。一時的なものだ。私がこれだけに殉ずることができるとは、私自身が到底思ってない。

本当にしたいことって何だろう?

本当にしたいことって何だろう?

今の私の回答は、プレイフルなことだ。

GTD勉強会をやってて、ものすごく皆が「わかった!」という瞬間が重なったことがある。これが一つのプレイフル。

最近キャニオニングに行った。ひさびさの川で、結構な高さから飛び込んだり、前身つんのめりでスライダーをやったりして、ひっじょーにドキドキワクワクした。これも一つのプレイフル。

私自身が心躍ったり、みんなの感覚が新しい何かにつなぎ合うことも好きだ。

プレイフルなことは、GTDを通じて、ようやく見つかった、私のしたいことだ。

しかし、プレイフルなことを見つけるまでには随分かかったし、壁もあった。

したいことまでの一つめの壁

壁は大きく二つあった。

まず一つ、何が自分にとって好物だと感じるようなことなのか。

今私はプレイフルだと言っているけれども、これをもうちょっと共通化すると、自分にとって非常に楽しいもの、好物である、ということ。

それは自分が見つけるべき、決めるべきものであって、誰かに与えられるものではないこと。

このプレイフル、まぁ要するには自分の好物を見つけるのに時間がかかったこと。

自分の特技と同じように、自分が好きな好物というのもまた難しい。途中はこれだ!と確信に近く思うんだけれども、突き詰めていくとまだその奥には違う何かが潜んでいることがある。

例えば、私はGTDが好きだから、GTDを伝えるのが好きだろうと思ったし、そこに殉じることが源かとも思った。しかしそうじゃなく、プレイフルだった。

まずはこの好物を見つけるのが難しい。

したいことまでの二つめの壁

次に一つ、それが好物だと自分で認めること。

人間の行動の中で不可思議だと思うのは、「認める」というあまりに抽象的な行動が、精神的にも身体的にも大きく影響を受けることだ。

認めることは、身体にある流れの関所のいくつかを開放するようなもので、「認めない」というだけで、身体や精神に随分な抵抗が生じるのだ。

私は、プレイフルと見つけるのも時間がかかったし、それが自分の好物だと認めるのも時間がかかった。

認める内容には、ちょっと人には言えないようないやらしい部分や、明らかに認められるのが極少数だと思われるようなものが、どうしても入ってくるからだ。成人君主になれるとは思っていない、けれども自分の悪い部分を認めるのは、別問題だ。

人生の100のリスト (講談社+アルファ文庫 A 42-3)

ロバート・ハリスの人生100のリストを見てみる。

そこには、ちょっとそんなこと言っちゃっていいの?!と思うようなこともしばしばリストに書かれている。そう思いつつも、どうどうと言える様を私はうらやましくもあった。なぜなら、そこには自信があったからだ。

自分のしたいことに誠実があり、向き合う姿がそのリストにはあったからだ。はたして自分がこんなリストを作ることができるのだろうか?  リストを作ったら、誰かに見せることなんて、できるのだろうか?

まずはこのリストを自分の目に触れさせることができること。

ここまでが大きな壁だ。

ここからまた壁は続くのだ。

観察者であろう

Being and Nothingness
Creative Commons License photo credit: Photo Extremist

1st: 会社の研修

観察者であろう。

最初、このスタンスを考えついたのは会社の研修だった。会社の研修で、シニアに向けて、自分たちの回りからの評価を見直して、見える見えない部分を見直そうというものだった。

この研修がまた、気分的には最悪なんである。何せまわりの人間から自分はこんな風に思われている、ということをつきつけられる。その内容を1泊2日の間こんこんと考えつくすのだからキツい。

それでも研修自体はシニア向けだから終始進みはよい。昔ジュニア向けの同じ研修を受けたが確かにあれはひどかった。話の進め方もそうだし、意見の受けとり方についてもしっちゃかめっちゃかだった。

しかしシニアの研修は進みはいいが、ジュニア以上にどん底に落とされる。1泊2日のしんどい研修が終わった後に、具体的な評価された人のコメントを返される。いい面と悪い面とが書いてあるが、この時は悪い面ばかりに目がいってショックを受ける。しかも図星だけに尚更たちが悪い。いい面に対するコメントも同じ数だけあるのに、いい面が吹けば飛ぶよな印象に変わるのだから恐ろしかった。

かくいう私もひどくショックを受けた。私はとてもじゃないが耐えきれないので、すぐに見直すことをやめた。講師によれば、そこから目を離さずにずっと見続ける人もいるらしい。

で、次に思ったのはもう会社をやめようと思ったことだった。悪い面があることは重々承知しているので、欠点を言われても人間不信には陥らなかった。のだが、会社に居てはならないのでは、という不安感には陥った。正直ぼろぼろ泣いた。

そして、観察者であろうと思った。

2nd: 感情を捉える

私は記事でも何度か書いていることだが、自分のことがよくわからないことがある。それを具体的な行動で言うと、自分の感情を言葉で表すことがすぐにできない比率が高い、ということだ。

その私がこのようなショックを受けているのだという。いろいろ考えた。はっきりした感情だった。そして感情がめまぐるしく動いた。

なぜ自分がこんな感情に振り回されなくてはならないのか。なぜこんなにもショックを受けているのか。どうしてそこで会社をやめようという考えに行き着くのか。そこでどうして自分が指摘された点をなおそうという反応にならないのか。というか自分はなんでこんなにもいろいろ考えるのだ。というかこんなどん底の経験は数少ない。そのときにはどんな風に考えるのか。

そこで思考はふと、私は私の観察者であろう、いう言葉に思いあたった。

それが最初の言葉の発露だ。私が私の内で言葉にしてから私の外に出ていくまでには、もう少し時間を要する。なぜなら、まだひとたびしか言われていない言葉なので、何の行動にもひもづけられていないからだ。

確かに、私は「自分を理解するのに人と話すより何倍も必要である」というグレン・グールドの言葉をポラリスに携えて、人がそうするより自分の解析を自主的に行ってきた。しかし、だからといって自分自身を観察しよう、という視点は持ち合わせていなかった。

まだ、上記の時点では私は私の内部から見ていることを想定しているが、観察する、という言葉は完全に内部の時点で流れを分断することに他ならず、そしてそれをよしとするのである。

谷亮子は試合の時には自分には4つのカメラがあると聞いたことがある。カメラは、自分が作り上げる心のカメラだ。私の観察者という立場は、谷亮子のカメラと同様のものを作り上げる、といったものになるだろう。とにかく、今までの考え方と、観察者であろう、という考え方は大いに異なるものだ、ということだけは理解できた。

思いついてはしばらく忘れていたのだが、その言葉を実践する時期に恵まれたというか、遭遇してしまった。

現在私は忙しい。年末あたりからその嵐の波はやってきていが、ここ最近になって大嵐となった。12月から1月にかけて、私はおおよそ二つの種類の硬直状態を体感した。

via 仕事や私事に追い詰められて陥る、硬直した状態について

この記事は、私のドツボな時期について観察してどのように感じたかを書いている。この時に「観察者であろう」と思ったことはすっかり忘れ去られてしまったのだろうが、行動は「観察者」そのものであった。

ここで「観察者であろう」という言葉にどうしてそういう風に思ったのか、一つ思い当たることがあった。私は感激の状態を表したくなる。もともと文章を書きはじめて外に出すようになったのも、感情が打ちふるえたのを知ってもらいたくて、そして同様にそんな風に体感してもらうためのきっかけとして書くことが多かった。

このドツボな時期というのは、その感激から正反対の時期だ。そういった感激の時期も大切だが、ドツボな時期をないがしろにする必要がどこにあるのか、とも思った。何かのプロフェッショナルとなるのには、酸いも甘いも必要だ。経験値のバリエーションを経た結果に言われる言葉に力があるのであって、甘い経験だけではビギナーズラックが連続的に続いているだけだ。

こういう心情になったのは、友人の影響も高い。嬉しいことも大変なのも面白いのだという。そういう体験を楽しもうと言う。「今の仕事が好きなのは、仕事で口喧嘩ができることだよ! 刃向かってこられたらワクワクするよ!」というような人間なのでさもありなん。

今まで私は心おだやかに生きていくことを目指していた。ブログも昔は控えめに行っていた。

しかしながら、公私ともにそうも言ってられない状況だし、嵐のサーファーよろしく、荒波に乗り出す必要があるのだとは薄々感じている。

問題はそこに入った際の精神的安寧の作り方だ。

GTDでは今まで具体的な作業の嵐から、作業に対して安寧といえるセイフティゾーンを作るべく働いてきた。

3rd: 本当の1st

私が「観察者であろう」と決意しはじめたのには、阿久悠の日記の本を読んだことにもある。

阿久悠は観察者だった。そんな観察者の阿久悠を私は好きだ。彼がこんな風に観察者になるなら私もなってもいいやって思った。

最後の後押しなんて、こんなものだ。

読書まとめ 「お金の流れが変わった! 新興国が動かす世界経済の新ルール」

お金の流れが変わった!
大前 研一
PHP研究所 ( 2010-12-16 )
ISBN: 9784569791630

概要

この本は、大前先生の最近の状況に関する傾向まとめ+それに向けての日本が行う対策を取りまとめた本である。目次は下記の通り。

    1. 第1章 超大国「G2」の黄昏
      アメリカ―「唯一の大国」はいかにして崩壊したのか
      中国―バブル崩壊はいつやってくるか
    2. 第2章 お金の流れが変わった!
      「ホームレス・マネー」に翻弄される世界
      EU―帝国拡大から防衛へのシナリオ
      新興国―二十一世紀の世界経済の寵児
    3. 第3章 二十一世紀の新パラダイムと日本
      マクロ経済政策はもう効かない
      市場が日本を見限る日
    4. 第4章 新興国市場とホームレス・マネー活用戦略
      新興国で成功するための発想
      日本経済再成長の処方箋

簡単にまとめると、第一章で、既存の登場人物であるアメリカと中国の現在の状況に関して。第二章で、現在表出してきた状況の「ホームレス・マネー」と、それから新規の登場人物である、EUと新興国について。第三章では、第一章第二章を踏まえての、現況における既存ルールがもはや通じないことと、日本が現状いかに危機的であるかを説明している。これにはどう対策すべきか、というのを書いているのが次の第四章である。対策のアプローチとしては二つ、金を稼ぐ部分を外部からとするか、それとも内部とするかである。外部については「新興国で成功するための発想」で唱え、内部については「日本経済再成長の処方箋」で具体的な内容を書いている。

 

 

読者ターゲット

この本のターゲットとされる読者層はどちらかというと、社長とか仕事作ってくんべ、というタイプの人々に対してのようである。

というのも、第四章の施策がそういう大きな施策ばかりだからだ。例えば、新興国で成功するための発想としては、昔の日本で培った技術を新興国で展開するものだ。それ以外には、公共事業として鉄道と鉄道の周りを含めたビジネスモデルを一式提供することも提案している。それ以外にも法人進出や中間層・貧困層へのアプローチ等の、ここら辺を狙ったら儲かるんじゃない?といった当たり目を紹介している。

そういうわけで、一個人としてこれからどうしたらいいんでしょうか? という質問にはこの本からはうまい答えは、ちょっと導きだしにくかった。

 

お金の流れは変わった

お金の流れは変わった。とはいえ、ここでいうお金の流れは、なんとゆーか、市場とか株とか、上流で流れているお金の流れであるっぽい。一般人の消費傾向とかそういうことではなく、どちらかと言えば、どこに出資するかとかそっちの話。なんとなく第2章を見ていると、世界地図を賭けにしてBETするようなイメージが浮かんでくる。つまり、世界ギャンブルのようなイメージ。

今まではその世界ギャンブルでお金を積んでて勝ってたのは、アメリカと中国だった。が、アメリカは大国から崩れつつあり、中国はギャンブル性が高く、いつ値崩れしてもおかしくない部分だ。それ以外にも当たり筋が出始めてきている。それが、EUや新興国である。

世界ギャンブルのルールが、当たり率が変わってきたならばそれだけで問題なかったが、もう一つ大きな要素が加わってきた。それが「ホームレス・マネー」である。

 

イナゴの大群のような「ホームレス・マネー」

ホームレス・マネーとは、投資先を探して世界をさまよっている、不要不急で無責任きわまりないお金のことである。無責任きわまりないとは、このホームレス・マネーはウォール街を中心した600人程のファンドマネジャーによって組織的に運用されていて、しかも運用といっても、実際はアセット・アローケーション理論に基づいてプログラム売買されているにすぎない。そのプログラムの指針は、いかに儲けるかに定まっているため、儲かるであろうと思われる場所にはすぐさま飛びつき、これはもう儲からないと判明すると脱兎のごとくに過ぎ去る。

このホームレス・マネーは、世界ギャンブルの中でいつお金をかけるべきか手ぐすねひいて待っているのである。ので、このホームレス・マネーが投じられると、場が荒れるんである。

ホームレス・マネーのついた国や地域にはうるおい、一時的にバブルが生じるが、それがはじけるのも速い。そして、世界ギャンブルでは、このホームレス・マネーがどれだけいついて、その間にその恩恵をこうむることができるのか、というのが成功のポイントにもなりつつある。

しかし、ホームレス・マネーは言わば短期的である。だから、ビジネスとしての正念場は、むしろホームレス・マネーが去った後にどれだけ継続的にビジネスを存続できるか、ということだろう。

 

日本で実現させたくなるような、魅力的な物語を描こう

この本で私が魅力的に思ったのは、私たち日本が潤うには、ホームレス・マネーを含めて、お金をつぎ込んだりしたくなるような、魅力的な物語を提供することだ、という主張する点だった。そのためには、魅力的な観光地を作ったり、商店街の株式会社化を目指したり、というものである。しかも、地域的な広範囲での魅力的な物語である。

私たち日本人に足りないとすれば、そういうのを大きくとりまとめて話を進める進行役やファシリテータ―かもしれないし、そのファシリテータ―を助けて働くサポーターなのかもしれない。

 

最後に本を読んで

今回は、レビュープラス経由で読んだ本のまとめであった。ので、ちょっと内容にばらつきがあったと思う。個人的には、レビュープラスなど献本システムはオススメだ。ブログの宣伝になる、という以上に、自分が買わないであろう本を買う機会ができる、からだ。特にレビュープラスは傾向を見てオススメしてくれるらしいので、ちょっと背伸びして読んでみたい本を見る機会ができやすいと思う。

忙しさのレベルとGTD

この手帳が他のものと違うのは、付箋を使って仕事をマトリックス管理していることです。

付箋で管理する「仕事マトリックス」

写真を拡大

付箋で管理する「仕事マトリックス」

図を見ていただければわかると思いますが、やるべき仕事(タスク)を付箋に書き出し、その都度「緊急度・重要度」を1~4のカテゴリーに分類するのです。このマトリックスを使って自分の仕事を目に見える形で整理するだけでも、自分の仕事状況がすっきり把握できます。

手帳と付箋で「仕事のピーク」を把握する! | 新・会社論

仕事が忙しくなると、その忙しさからなんとか脱却したくて、いろいろ仕事管理を探そうとする。かくいう私も同じくで、暇を見つけては何かいい方法がないか探してきた。

で、いろいろ見ていくうちに、「こうしたらいいよ!」とすすめられる仕事の管理方法には、いくつかパターンがあることに気づく。上記のような時間管理、といった方法だ。仕事管理の方法にパターンがあることは結構簡単に把握できる。

ところが、今の自分に相応しい仕事管理を見つけるには、そのための基準が仕事管理のパターン以外に、もう一つある。忙しさのレベルだ。

多忙レベル1:忙しさはそれなりだが、緊急度&重要度マトリックス管理でなんとか対応できる

忙しくなってくると、何が今緊急なのかがわからなくなってくる。そこで、この4つのマトリックスを使って管理するということだ。緊急度&重要度のものからやっつけていけば問題ないはずだ!

このレベルは、通常の仕事よりも「あれ?いつの間にか仕事が増えてる・・・!」といったぐらいの状況までに対応しやすい。

おおよそ自分の作業量よりも多くやってきて、把握が追いつかないので、項目数を把握するだけで十分な場合に適応しやすい。

このレベルは、メンバーが一番活性化しやすい状態。

多忙レベル2:忙しいは忙しいが、締め切りでなんとか対応できる

正直なところ、「俺がんばったぜ!」という充実感をバランスよくもてるのはレベル1の忙しさ。とはいっても仕事はノンストップ、「こっちくんな!」と思っても仕事はやって来るわけだ。

  • そもそも重要なものの区別があんまりないんだけど
  • 全部が緊急&重要なんですけど
  • 何時の間にか重要になってて4つのマトリックスで管理するどころじゃないんですけど!
  • 重要かどうかを判断する暇なんぞない!

といったような問題が出てくると、マトリックス管理では間に合わなくなってくる。

じゃ、どういう戦略に出るのかというと、至ってシンプルだ。

締め切りの近いもので、尚且つ今取り掛かることのできるものから、やっつける

この時の私のイメージは、爆弾処理班だ。締め切りという爆発時間の差し迫った爆弾(仕事)から対応処理を行う、というものだ。対外的な問題から言えば、「要は締め切りが守ればいい」んである。

しかしだ。

この爆弾処理班が一つも爆弾を爆発させることなく処理するためには、次のようなことを把握しておく必要がある。

  1. 自分の受け持つ全爆弾を把握している
  2. 全爆弾の、爆発する予想時間を全部把握している
  3. 全爆弾の近未来に取り掛かるべき処理作業の見通しが立っている
  4. 全爆弾のうち、今現在取り掛かれる処理作業を把握している

そして、会社の仕事がつつがなく処理するにも同じことを把握しておく必要がある。

  1. 自分の受け持つ全仕事を把握している
  2. 全仕事の、締め切り日を全部把握している
  3. 全仕事の近未来に取り掛かるべき作業の見通しが立っている
  4. 全仕事のうち、今現在取り掛かれる作業を把握している

ここらへんの全体と作業を把握しやすいような考え方とやり方を紹介しているのがGTDである。

多忙レベル3:とにかく忙しくて、管理が追いつかない

多忙レベル2でも十分忙しいんであるが、残念なことに更にこの上を凌駕する忙しさは存在する。

仕事があんまりにも忙しくなってくると、仕事をふった側も何時の間にやら依頼したことを忘れてしまうこともある。そもそも全体の仕事を誰が把握しているのかすら、胡散臭い。

先ほどの爆弾処理班のたとえをそのままもってきてみよう。

相変わらずの爆弾処理。明らかに処理対応許容量を超えた爆弾が横たわっている状態だ。このとき、ある量の爆弾が、爆発するのはやむなしと考えつつ、爆弾処理を行うというのが、このレベルの忙しさである。

管理の時間は大幅に削られ、とりあえず爆弾処理だけに追われ続ける、というのがこのレベルである。

ここらへんの多忙レベルの友達に、GTDをすすめたら、怒られた。

ちなみに、大規模プロジェクトリーダーは、この多忙レベルが一番活躍しているように思う。それから昼の厨房とかはこんな感じのように見える。最小限のデータだけ記述し、それ以外は全部頭に入れて、行動時間を短縮するという形である。

このレベルになると、管理方法は、個人間で最適化された方法では不十分で、その状況に合わせた連動性の高い管理方法が必要となってくる気がする。

多忙レベル4:忙しすぎて、何がなんだかよくわからない

いわゆるテンパッってる状態。多忙レベル3ではまだ処理対応はできている。これを更に凌駕すると、もう対処の施しようがない。

個人に対してこの多忙レベルを割り当てるなら、多忙レベル3で、上司にエスカレーションをあげたいところ。しかし多忙レベル4になると、もう自分からヘルプをすることすらできなくなってしまう。のかもしれない。

私が2010年2月に起こった状況は、多分このレベルなんだと思うんだけど、生産性は格段に落ちる。とにかく進むだけで精一杯な感じ。

それでも大規模プロジェクトリーダーレベルは、元気に活動中だ。やつらはタフだ。私の上司は結構な問題が発生するとこう言った。

「俺、わくわくしてきちゃったよ!」

悟空がいた。

まとめ:管理方法が変わるのは仕様がない

そんなわけで、仕事管理の実装には、この忙しさがどうしても絡んでくる。私が今まで実装をころころと変えてくる癖があるのだけれど、これは自分が飽き性だけでなく、忙しさが安定しないということもあったんだと、合点がいった。

そんでもって、GTDをやろうとする人間にSE系がどうも多いのは、この忙しさの上下が激しく、ついでに作業がプロジェクトによって切り替わることが多いからではないだろうか。

さて、あなたの最近の忙しさはどれぐらいだろう?

経験の一範囲

経験の実装

経験と呼ばれているものを、私は身体の中でどのような実装をしているのか考えたところ、それはシナプス経路のあの経路なんではないかと思っている。

で、そのシナプス経路の有効範囲はどれぐらいのものだろうかと次に考えると、どうにもこれがものすごく狭いように思う。

上記の経験の有効範囲の考え方のもとは、心理学のあのルールにもとづく。400gと405gは区別できないけれども、400gと450gだと区別できる。400gと区別できるかどうかのグラム数が、この400gだとわかる有効範囲なんだと思う。

要素のなにが異なれば、その経験は別のシナプス経路を一部なり全部なり身体は用意する必要があるのだろう? これが考えてみるに思ったより小さい。

新しいトイレは怖い

ところで、トイレが怖いという友人がいる。その友人のトイレの利用は面白くて、いつも使っている一つのトイレにしか使わないという。トイレにも実績があるらしく、一度入ったトイレには実績があるから大丈夫なのだと言う。ちなみに何が証明された実績なのかというと、お化けがでない等だ。

そんな友人と旅行に行ったところ、友人がトイレに行きたいと言ったことが悲劇の始まりだった。今は自分たちの部屋からかなり離れた遠くの風呂場にきていて、夜はもう0時近い。トイレはもちろん近くにあるけれども友人にとっては一度も経験のないトイレばかりだ。結局私を連れだって、事なきをえた。

友人の奇妙な行動は不思議なものだった。まぁ人によってはそんなもんかと思っていたのだが、まてよと思った。

つまるところ、友人にとってはそのトイレに行った経験のシナプス経路のみが存在して、別のトイレに入る、というのはこれまた別のシナプス経路が必要な経験なのではないのか、と思ったのである。

新しい場所も、新しい物も、経験は異なる

場所が異なるだけで異なることは何もトイレに限ったことではない。物だって同じことが起こりうる。メモ帳が変わるだけで、使い勝手は変わってしまうし、服によっても気分が変わる。人の使っている自転車は使いにくい。私たちは気づいていないだけで、振る舞いがほんの少しずつ異なっているのだ。

私自身もこの振る舞いの違いにいつも振り回される。ノートは物によって、続けてかけるノートと全く書けないノートが存在するのだ。表紙がぺらぺらなノートが前にぜんぜん書き込むことができなかった。

このように、場所から始まり、小さな物によって、状況にあわせて私たちの経験はそれぞれ専用のシナプス経路があるのだと、私は少なくとも理解している。

経験は局所的

このように、経験は局所的である。やることは同じでも、要素が異なると、合わなくなることが多くなる。そして状況の移行は徐々に移りゆくものだから、状況が変わっていないと勘違いしがちだ。

世界は劇的に変わる場合もあれば、ゆるやかに変わる場合もある。

私たちは砂糖が400gから変わる瞬間に気づく必要があるのだ。

派生的な項目

・仕事術がいまいち合わなくなることがあること
・集中するための儀式

自分コメント

  • 初出 2010/03/30

知る前と知った後、その瞬間の衝撃と熱量、シュレーディンガーの猫という可能性の際

via ja.wikipedia.org

プレイフルリストに「ADD,ADHDのチェックをする」というのを書いた。

ひとえにこの項目をプレイフルリストにいれたのには、よかれ悪しかれ、その判明する瞬間の衝撃を心待ちにしているからだ。自分がその予想と近しい場合、その衝撃は歓喜となり、遠い場合には落胆という感情を伴う。私は、いずれに転んだりにしても、その知る瞬間の衝撃を身体を伴ってあじわうことが、何よりも好きなのだろう。またどちらに転んでも、歓喜と落胆を同時に覚えるかもしれない。ただ一ついえることは、何も感じないわけはない、ということである。

その瞬間の前後は、シュレーディンガーの猫を彷彿させる。

シュレーディンガーの猫は、心理学の実験の一つだ。ある密閉空間に猫を置く。そこに毒性の空気を含ませる。この実験の要素は、箱を開けるまでは、猫は死んでいるかどうかがわからない、というものだ。物理的に言えば、猫が生きているか死んでいるかは、他の要素から成り立つ。しかし、感情的には、期待の度合いが反映されて半々だったりして、まったく異なる。

私は、知る前と知った後の心持ちの度合いが気になる。

知った後の気持ちの熱量の違いを知っている。ファイナルアンサー!と言われればやきもきする気持ちを押さえきれない。答えはもう決まっているはずなのに。そしてその後の正解と残念と言われた後の熱量が去った感覚。事実がステージの幕から現れ出たというだけで、内包する熱量の違いは一体何なのだろう。現実というステージに現れ出ない限りには、私たちの脳は可能性があると思って、正解と残念との二つの場合の心の準備をしているのかもしれない。その二つの場合の心の準備の度合いが、熱量の違いなのかもしれない。最近はそのように思う。

私は知りたいと思う。その結果を私に正解とも残念とも気持ちにさせるかわからないにしても、何も変わらない前よりも、変わる先を楽しみにしているのだ。

初出:2010/05/30

Page 1 of 3112345102030...Last »
Get Adobe Flash playerPlugin by wpburn.com wordpress themes