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歩みとエネルギーとカネボウの戦略 View Comments

私は精神論系の理論から実践に落とし込む方法では効果がでない。意志なんたらでどうにかなる部分も数多くあると思うのだが、私には非常にムリだった。その感情でうまくできるのは、EGで言う社交型のスタイルがよく持つ場合だろう。私はあまりそうではないし、分析型スタイルの方がパーセンテージ的には大きいため、理論的なアプローチを選択することが多い。それは、自分自身の感情の揺らぎについても、同様のことが言える。

 

本を読んでいたり、ブログを見たりしている時によくあることだ。

「なんだ、コレ知ってるよ」

「あれと一緒でしょ」

というような感覚。一言で言えば慢心という言葉が適切じゃないかなと思う。

上記の感覚は、私には危険信号になる。それは自分の歩みがゆるくなっている証拠だ。入力に関する受信する範囲の取捨選択に捨てるものが多くなるとき、以上のような感覚に陥ってるんじゃないかと思う。同じなら同じでいい、ネットワークならば同じものでノードを大きくする必要があるが、慢心した気持ちの場合には、自分の中のそれと融合しない。捨て去られる運命だ。

これの何が悪いかというと、自分で物を考えることを止めたシグナルだからだ。それに対しての理解を一切止めて、自分の中に組み込むことを拒否する。それと自分の中で似たものとの同値や差異の比較をすることすら止める。それが連続したものの見方に遷移すると、「偏見」になるような気がする。

一時期、自分の中で進むのが止まったと感じたことがあり、そんな時には、特にそういう風に思った。しかし動くことがなくなれば、進んでいる物へ同じ進みを強要しようとするのは反作用よろしく至極自然な結果のように思う。

 

 

ジェットコースターに乗った時、あまりに怖くて数字を数えるようにした。これは功を奏し、私はジェットコースターを前向きに楽しむことができた。

ジェットコースターのスキな所は速さと重力のやるせなさだ。一方キライなのは、落ちる前のあの落下までのゆっくりした上り坂と、それから一瞬フワっとなるあの重力感からいきなり落ちる遷移状態だ。気持ち悪い。

姉に言わせると、そのフワっと感が面白いらしいのだが、速さだけを求める私には、むしろ不要というかなくしてほしいし、突然やってくるのも頂けない。既にロードマップ上に存在する直前の恐怖ほど嫌なものはない。

とにかく、突然であることが嫌さの原因だったので、数を数えてみた。そもそも数を数えようとしたのは意識をずらすためだ。数を数えている分には、自分の知る時間軸で時間が過ぎる。いつやってくるかがわからず恐怖ならば、数を数えることでしかるべき時間にやってくることとしたんではないかと思う。

これが良かった。あの上るまでの不愉快な時間はなくなりつつも、その後の楽しさを楽しむことができた。ここから何が言えるのか?

 

相手と足並みを揃えることが良かったのではないかということだ。

 

 

慢心な気持ちは、相手と足並みが揃ってないことから生じる物理作用なんではないかと思う。つまり、自分が止まってて相手は進んでいるから、相手を遅らせようとするのではないか。相手の内容が止まった情報で受け入れるべき情報ではないのか、という判断を自分にせしめているんではないかと思う。

ならばその慢心を回避するための策は、相手と足並みを揃えることだろう。

 

しかし、進む方が受け入れることを拒否することは、止まっている方よりかは割合が少ない。これはどうしてだろうか? エネルギーの違いなんじゃないかんと思う。進んでいる方がエネルギーが大きく、エネルギーの小さい止まった方は、エネルギーの大きさを受けきれないんじゃないかなと思う。

 

これを逆手に取って戦略に落とし込んだ方法が、コレなんではないかと思う。

 

【東京ブック】 対等に見せる戦略 – IDEA*IDEA ~ 百式管理人のライフハックブログ ~http://www.ideaxidea.com/archives/2009/06/tokyo_book_2141.html

「カネボウが化粧品業界に参入したときの戦略は見事でしたね。

資生堂が10だとすると当時のカネボウは1ぐらいの売上しかなかった。

でも資生堂が口紅のキャンペーンをすればカネボウもする。

アイシャドウをすればカネボウも追随する。

そうすると一般の人には10対10の会社に見えてしまうんですよ。

10対1の売上とは思わないのです。

そして売上もだんだん、少なくとも10対3とか4になってしまうのです」

太字は使わない View Comments

書き方のフォーマットは人それぞれだと思う。私は、基本的には本と同様のフォーマットに従うようにしている。章の始めの一文字ずらしはできてないが。

フォーマットは、自分のいいたいことを整理するための手段だ。私に提供される手段は以下の通り。

  • タイトル
  • 見出し
  • 段落
  • 改行
  • 箇条書き

太字は使わない。

 

太字にすれば、自分の言いたいことに相手は一応注目するだろう。しかし、それでは、その太字を言うために、それ以外の文字を尽くした理由がなくなってしまうんじゃないかと思っている。自分で種明かしをするマジシャンのようだ。その一言で相手に楔を打つのが済まされるだろう。しかし、そのバックボーンや熱量を合わせて伝えることによって、相手の心の中でその言葉を召喚させることが本筋なのであろうに、その読み手が本来すべき作業を書き手が分捕って作業する。要するに、相手が読み取れないって思って自分で作業やってんじゃねーかと思う。この相手への信頼のなさ! そして自分自身の文章とその構成力のなさ! その結果が文字を強調させてんじゃないかと思うと、自分がふがいなく感じるのだ。つーか、どんだけ自分に自身がアルノヨ。

そんなことを感じるので、個人的に太字を使うのは、自分が負けた気になるので使わない。

これは書き手からの視点。読み手からの視点からだと、文字にえこひいき感が感じられてて、なんだかつまんないんだ。そう、つまらない。

 

さっきも言った通り、自分で種明かしをしているマジシャンのようなんだ。まぁナポレオンズなんかは敢えてそういう振る舞いをしている所が売りなんだけど、文章もそういう売り方があるかもしれない。私もそういう日記を楽しく読める。それに私も昔は太字を使って書いていたことがある。しかし最近はとんとしなくなった。

しかしどうしてつまらなく感じるのだろう?

 

先ほどえこひいき感と言った。まずつまらなく感じる理由の一つがこれだ。文章はその文字量からして、正直一列に読み解くようなものではない。そして全ての文字が一つの目的にそって働きかけるはずなのだが、太字でその文字に働きかけに上下が生じる。太字の文字がフォーカスされることで、他の文字の価値は薄れる。そして本来備わっていた熱量が制限される。

日記で見るような太字はこれが反対で、むしろ太字やフォントの大きい文字を際立たせるために貢献される。だから多分あまり違和感がないんだと思う。

でも主義主張や自分のマジメに言いたいことで使われたりすると、ちょっとした違和感を感じることがあるし、個人的には歪んで情報を受け取った気になる。人によっては理解しやすいのかもしれないけれど、

 

次に考えられる理由が、文章書きとしての限界を露呈している気分になるからだ。私は昔は小説を読むことが多かった。最近の小説ではどうかわかんないけれども、小説で太字を使うのはありえなかったし、できれば今もそうしてほしい。太字がなぜ使ってほしくないか、と言うと、地文の構成がおかしくなるからだ。太字レベルの文字というと、次には章タイトルや見出しだ。太字はそれと同様の効果を知らしめる。それが地の文で出てくるのはもう、卑怯技に近い。

こんなに文字を尽くしても自分の言いたいことが伝わらないなんて、と思うことがある。文字ということに限界を感じる。それでも尚、その感情ですら文字を介在することでしか言えない。そんな大前提の中で、文字を尽くすことに意味のなさを感じつつそれしか縋ることしかできない。それなのに、太字を入れて自分の言いたいことが伝えきれることができるのか、私には証明できない。もちろん、強調のために用いている人もいっぱいいるだろう。つーか私じゃねーか

文章が、その人の中でどのような言葉に集約されるかは、異なる。どんなに太字にして強調したとしても、それは異なる。それにも関わらず、太字にする程その部分に執着するほど、自己主張したいのか、それとも自分の他の文章で収束できてないのか、それとも理解しやすいようにおせっかいでしているのか、私には図りかねる。

 

 

とはいっても、どのように文字を修飾して、自分の言いたいことを伝えようか工夫するかは、その人のポリシー次第だ。

私は太字を使わない。……多分。

連続性の不可解さ View Comments

どうしても自分を変えられない:自己変革を妨げる「私」のなかの「私たち」 | Lifehacking.jp
http://lifehacking.jp/2008/10/first-person-plural/

私たちは「自我」というと、今日も明日も「私」という一人の人が持続して存在していると考えます。しかし最近の心理学の研究で、より現実的にはいくつもの「あれをしよう」「いや、これをしよう」と争う異なる自我の不安定なコンポジット(合成)が、いわゆる「私」という自我の本質なのではないかという学説が提示されているという話題です。

二重人格や痴呆症等、一人一人格という状態がなくなる可能性はよくある。それは、通常一人格を所有する私たちにもあるんじゃないかと思う。

佐々木正悟さんの中でタスクシュートの話があって、そこで一番好きなくだりがある。次の15分を別の誰かに、というくだり。「私」という人格を、敢えて(少なくとも私には敢えてに見える)時間で分割することにより、行う。メメントのような不可解さではあるが、実際にある話なのでそのような運用もありかもしれない。

 

ところで、二重人格や多重人格になると、どうして日常会話で使ってない言語が使えるようになるのか不思議だった。それを友人に話したところ、次のような回答を受けた。

「だってそれが当然になるのだから」

これは衝撃だった。何がどう衝撃かは説明しきれないんだけども、当然ならばそこに使用に迷う余地がなくなるということが。

しかしそれはアリかもしれない。例えば私はマンガが好きだ。私のマンガの楽しみ方の一つに、キャラがそのような言動をしたのか不可解な時に、自分なりの答えを見つけ出すことだ。その時はその前後の言語や行動、状況を総合評価して、それなりの理由というかこじつけというか考えだそうとする。これが結構自分では納得のいく答えが出てくるのが、自分には絶妙でなんとも面白い。

こじつけなんだけどなんだか納得する感、これが記憶の分断された人格の中で、別の言語使用が当然ならば、それを伝達道具として用いるのは当然かもしれない。

 

ところでところで、多重人格と言えば、それを統合するというか取りまとめる人格がほぼ必ずいることもなんとも絶妙だと思う。プロジェクトのロールを見直したりしているのだが、規模が大きくなると、どうしてもリーダーを取りまとめるリーダーという、オルガナイザーが必要となる(ちなみに私がオルガナイザーという言葉を好んで使っているのは好きな小説で使われていたというだけだ)。たとえ多重人格であっても、そのオルガナイザーの出現はどうしても必要なみたいだ。

頭脳自体もシナプスのネットワークだ。プロジェクトは人のネットワークだ。粒が集まるところに一律なサイクルがあってもおかしくはない。

 

ところで最初の話。「異なる自我の不安定なコンポジット(合成)が「私」という本質ではないか」ということだが、個人的にはむしろこちらの方が納得が行く。

自我というか、言語で表現されるある特定時間での思考の発露は、シナプスのあるネットワーク経路の通過信号だと仮定する。頭の中でいろいろなネットワーク経路の通過信号が発信されれば、さまざまな思考が脳の至るところで発信されているのではないかと思われる。だから、こうやって考えている間にも、別のシナプスネットワークへの通過信号が発生して、話が続いているのかもしれない。そして、しばらくたてば消滅しているのかもしれない。というか多分消滅しているのだろう。

それにしても、いつも思う。この連続性を感じる感覚だけはいつも不可解だ。確かに「私」は「私」という固体の中に存在する脳から発生した信号で、発露された言語を用いて発信しているが、十数年前の私と同じ私を共有している、ということを確信していることにいつも不可解に思う。

十数年前の思考は発露したその時点で死滅しただろう。島田雅彦に喚起した17歳の私の思考は、今の私には理解できない。けれども、私がいくらその思考を不可解に思ったとしても、それらの私を経由してしか、今現在の私は成立しない。今の私にパラレルの世界はない。今が全てだ。いつまでも今が今で、それが全てだ。振り返って私は見つける。

私は私の屍を越えて行く。

踊り場で垣間見る View Comments

  • 具象的が抽象化されることは真であってもその逆は真ならず

というのを「創造学のススメ」で知ったわけだが、人が物理的に保持している経験がこんなにもまとまりにくいものだとは、思ってもいなかった。というのを衝撃を持って感じた。

とっかかりは確かエマジェネティックス。エマジェネティックスの思考スタイルは、その人の行動ならばある程度特定ができるんじゃないのか予想とシナプス経路が丁度相似的な関係を感じた。たぶんそこらへんだったはず。

それが、おそらくの最初の起点なはずだったんだけど、本来考えていたはずの事象を、すっかり忘れてしまった。

  • GTDTIMES-TLS-JPの「GTDが解決してくれないこと」のADD部分
  • エマジェネティックスの思考スタイルのディテール型のパーセンタイル値
  • EGトレーナー研修
  • http://ex.senmasa.com/add.phpで不注意型ADDの傾向ありと判定
  • GTDのプロジェクトの進め方

面子がそろってきた感覚で、踊り場のイメージがある。

診断テストは割と誰でもそういう傾向がありそうだと思ってたのに、友人にやってもらったら、まったく傾向がなくてショックを受けた。というのも、不注意なのが当たり前すぎて、そういうものだと理解していたし、ひどく問題にはならなかったのも事実。

そう思うと、エマジェネティックスのディテール型はもうちょっと真面目に考えた方がいいような気がしてきた。この前受けた時は、もっと軽い気持ちでディテール型の部分を見てきてたけど、もう少し真面目に受け止めた方がいいような気がする。

GTDのリストについてももっと詳しく記述した方がいいかもしれない。

「私」について View Comments

人間が分子のかたまりならば、それらが皮袋に入っているその一点において、思考など統一されるべくもない。

確かに私は考えている一部ではあるが、他の何か私の体の中で蠢いているのも確かである。「私」という家の中で住人が複数人いるという家庭ならば、その感覚はなじむものだろう。しかし、こうも思う。仮に思考の粒があったとして、そのいくつかを束ねたものを思考とし、言葉のストリームとして発露するならば、今の「私」というものはほんの数秒しか存在しないだろう。「私」が「私」として連続的に意識が存在するには、記憶のつまった身体に繋がっていることが、どうにも必須のように思われる。

ところで、二重人格や多重人格ではどうして自分の知らない言語でもあやつれるのかと不思議だと友人に話したところ、友人からこんな回答がかえってきた。

「だって、それが当たり前だから」

記憶が意図して経路を分断された時、その限られた空間の中で思考をまとめるために、無理やりにも作成される人格なのかもしれない。しかし、言語・技能がそれに慣れていないにしても使用できるのかがあまりに不可思議である。火事場の馬鹿力と同じで、それが常時働いているようなものだろうか。その時の脳の活性化部分は異なるのだろうか。

これからウェブサービスを作る方へ View Comments

具体的なユースケースを作ってから、作成されることを激しくお願いしたいです。

世の中デザインファーストとか言われていますが、ぶっちゃけその通りです。使われてナンボのこの世界。格好良さや速さなんてのは使い勝手の前では儚いものです。それに格好良さや速さが何のために存在するのか? そんなもん一言で言えば、人が使うのを速くするためです。

しかし、一つ一つのアクション自体が速くなっても、サービスがよってかかって攻めてもどうにも難しいことがあるのも事実。それは何か? 人の動きとゆーものです。画面の前にいるその操作をしてくれる人は、結構簡単にあっちへうろうろ、こっちへうろうろしてしまいます。そこに特効薬はあるのか? あると思います!

ユーザビリティとかそーゆーもんです。

私がサービスを使って手がわなわなとなるのはどんな時か? こうしたいと思った時にその機能がない時です。「飲みたくなったらお酒、眠たくなったらベッド」とは昔の流行曲のフレーズで私の好きなフレーズベスト10にも入るわけですが、まぁサービスにもそんな次から次へと差し出すサービスを求めるもんです。少なくとも私は求める。

でもさー、ユーザは好き勝手にするから、ユーザビリティっていっても一概に決められないじゃないかー

何を言ってますですか、動作を決めるのはユーザではありませんよ、サービスです。サービスがちょちょちょと誘導させてユーザがどう使うか決めるんです。誘導です。牧場と一緒です。迷える子羊ばっかりなんです。牧羊犬よろしくがんばるのです。それができてこそのサービスです。しかし、ユーザビリティといっても、これが決まってなくてはユーザビリティも発揮できないんです。一番初めに決めてないこと、あるじゃないですか。

それはユースケース。

ここで言うユースケースとは、そのサービスを使ってユーザがどんな風に振舞うかを決めること。ここでボタンを押して遷移したりとかそういう奴です。一番上で言ってるデザインファーストは、私はここと同じことを指し示してます。いやいや作ってるよと言われるかもしれません。

しかしですよ、その時にボンビラスなみのいやーなユーザーにねちねち文句を言われても大丈夫なようなユースケース、作られたとですか。自分が頭の中でイメージしたその画像になるようにユースケース書けたですか。んな無茶な! と思われるかもしれませんが、こんぐらい気合入れないとユースケースの意味はありません。

こんな売り文句よく見かけます。 「可能性は無限大です! そんなもん嘘です。作ったところで使い方がわかってないだけです。作った方がわからないのにユーザがすぐには理解できるわけがないじゃないですか。

こんなこともよく聞きます。「いいサービスだったら使われるに違いない!」 いつまで白馬のユーザ様を待ってるんですか。世界は変わりました。ユーザ市場の世の中、サービスからアプローチをしなきゃいけないんです。

使いにくいのにがんばって、使い方を見出すようにがんばりたくなるツールなど、ないわけないですが、超稀です。そしてそんなサービスは効果が出にくいので、ぶっちゃけメジャーになりません。

作るサービスを愛してください。

そのサービスが好きなら、どういう風に使われることを望んでいるのか、教えてください。他のサービスと違ってどんなことができるのか教えてください。どんな風に使ったら快感なのか教えてください。少なくとも私は、バカでドジでのろまなユーザです。使って30分以内にそれがわからなかったら、次のサービスに行ってしまいます。

さよならだけが人生です。

それでも、私はそのサービスに良さがあるなら、共有したいと思います。できないなら言いません。できるからこそ言うんです。開発者さまさま、良いサービスを提供してください!

以上、口うるさいユーザからでした。

 

自分コメント

  • 勢いに任せすぎてどうしようもない。。

エネルギーの問題 View Comments

言葉にもエネルギーがあるんじゃないかなと最近思っている。

  • 頭の中から文字に書き写した際にエネルギー遷移を感じた
  • コンセプト型の親しむ言葉のエネルギーは、現状をそのままに映すために高エネルギー状態
  • 社交型の親しむ言葉のエネルギーは、理解がしやすいために低エネルギー状態
  • 頭の思っている内容を紙に書き写す行為は、状態遷移
    • 頭の中のエネルギーを紙状にエネルギーを遷移させる
    • 紙状の文字列は低エネルギーで、頭の中に存在している場合は高エネルギー
    • 頭から外れた場合、以下のようなことでエネルギーが消費される
      • 集約し言葉にまとめること自体で不要なエネルギーを開放する
      • その言葉を紙に書き写すことで、脳内での維持活動のためのエネルギーが保持する必要がなくなる

本当はエネルギーではないかもしれないが、他にいい言葉が思い当たらないため、今回はエネルギーとする。

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