- あなたが伝えたいこと
- あなたが伝えたいことを言葉に変換すること
- あなたが伝えたいことを言葉に変換することを文章にすること
- あなたが伝えたいことを言葉に変換することを文章にすることを流布すること
- あなたが伝えたいことを言葉に変換することを文章にすることを流布することを誰かに届くこと
- あなたが伝えたいことを言葉に変換することを文章にすることを流布することを誰かに届くことの後その人に読まれること
- あなたが伝えたいことを言葉に変換することを文章にすることを流布することを誰かに届くことの後その人に読まれることの後その人に理解されること
Monthly Archives: 7月 2009
あなたが伝えたいことが、誰かに伝わるまで
ことごとく広がり続ける世界
時間との付き合い方
時間計測の話になると、私の場合、Personal Software Processから始まる。最初に入った会社ではこのやり方で入社前研修を行った。その時に、正確に時間を計測をすることは難しいのだと至った。弊害もあった。私の計測のチャンクはこれで固定化されてしまい、10分とか15分とかざっくりとした時間スパンでの予実管理ができなくなってしまった。
計測するにはある条件が必須となる。その作業が連続的に行われる状態であること。これがなくなると、私の中では計測したとは言い切れない。このことから、私の中では計測というものは、陸上の時間計測並みの状態を保持するべし、と意識が働いていることがわかる。
しかし、プロジェクトに携わるとそうもいかない。活発なプロジェクトだと、他の人に話を持ち掛けられたり、電話がかかってきたり、連続的な作業時間を確保することが難しくなる。なので、私が求める潜水のタイムトラッキングのようなことは、できなくなる。
意識は集中し、拡散する。私はこの流れを意識的に制御したいとは思わないし、制御できるとも思っていない。残念ながら私の意識というものは、時間に関してあまりよい印象を持っていない。何をどうよろしく思っていないのかはちょっとまだ解析していないがまぁとにかくそうなんである。
とにかく、私の意識には、きちっとだとか、みっしりだとかが、どうにも背中に怖気が立つほど苦手らしく、それは時間管理にも言える。切り替えには多少の時間が必要だ。浮遊する時間の中でゆらゆら動きつつ進められるなら、これよりうれしいことはない。
そんなんだから、一般的な時間管理というものが合わなかったんだろうと今にして思うわけだ。ならGTDはどうなの? というと、あんまり時間については細かく言わないところがすきだった。スケジュール、というか結局のところ、他の人と約束する内容を最優先すれば、あとは適当にやっても文句ないでしょ、というあの、しめるところはしめて緩めるところは緩めてもいい、手加減が好きだ。
私が予実をしなくなったのは、実績を取ったからといって、限界的な時間があることがわかったからだ。結局作業をするということには変わりはなく、その作業がなくならなければ、時間は極端に減ることはない。最適化する作業は私の場合自動的に行われるので、多分他の人よりかは限界値に近い状態にいるのだろうと思う。
自分コメント
- 取り留めなくだらだらと時間関連について
- あんまりまとまってない。
- via 時間計測ツールの記事
書き尽くす理由
Draftsのカテゴリを作ったのを皮切りに、pomeraも買った。Draftsを活かしきるためにも、もっと気楽に文章が書けるツールがほしかった。
気楽に文章が書けるツールというと、私の中ではMobileGearMK32/64が最高峰だった。随分昔の記憶だからいい記憶しかないかもしれないが、電池で動くこと、重さが500gたらずであること、復帰が速いこという3点が魅力的だった。
話を戻そう。どうして書き尽くすのか? GTDを初めて、処理しきれない「物」は私の悩みでもあった。一切合切を「物」として取り扱う場合、どうやって手早く処理をするのだろうか? しかし、そんな処理機構から外れているものもある。B5の無地ノートだ。
このノートについては基本的に処理を行わない。というのもこのノートに書かれているものは基本的に決まっているからだ。Referenceリスト。ここを起点に作業が発生することはあまりない。
けれども、と思った。このノートには落書き程度のものも存在する。しばらくして、B5のノートに収まりきれないもうちょっと気軽なサイズを求めて文庫本ノートを買った。
2冊目にはいけたが、2冊目が全く活用できなかった。なぜだろう? 文庫本では大きさが大きさだけに、使い回しをしようという気持ちにならないからだ。B5はそのサイズからして、後で見返すにも、なんとなくしやすい。しかし、文庫本はいまいちそういう対象にならない。
で、話を戻して。今更なんだけど、これらのメモ書きは、確かに今後のために書いたものだけど、今後必要になるかどうかはまた別の話だ。ただ、ひとつ言えるのは、書くことによって、その内容から一旦の決着が着く。そうして忘れられる。
一度でも想起されたなにがしかは、その末路を探して頭の中を浮遊する。揮発性の高くて、すぐに頭の中から消え去るものもあるし、そうでないものもある。揮発性の低いものは、そのまま頭の海の中で沈殿し、ヘドロとなる。
人間の消化器官でも、排泄器官があるものだ。情報の排泄器官が、この書き尽くすという行為に他ならないのではないだろうか?
自分コメント
文脈ないし。
『世界は私のためにある』
「物理的な世界」はあるが、実際自分が感覚として把握しているのは鏡像としての「仮想的な世界」である。
「物理的な世界」は「仮想的な世界」と等しくはない。なぜならば、「物理的な世界」は、世界の裏側でも何かが起こっている。しかし「仮想的な世界」ではそれを知覚はしていないからだ。つまり「仮想的な世界」は、「物理的な世界」のうち、”私のために”、私が必要としたものが選択されている。
更に、選択されたものや事象は、”私のために”、私の印象を反映される。好きなあの子が笑った、たったそれだけの事象が意味を持つのは、私が”私のために”、重要だと認識しているからに他ならない。他の人の誰かが見たら、へんな顔して笑ってた、と解釈しているかもしれない。故に、選択されたものや事象は、”私のために”、私の印象を反映される。
故に、『(仮想的な)世界は私のためにある』。
そして、(仮想的な)世界を彩っているのは、私自身である。だから、(仮想的な)世界を変えるには、世界の主たる私が変えれば瞬時に変わるというものである。
それぞれの世界は、それぞれの私のためにある。
書くこと・書いた後・そして過去現在未来
GTDでは、自分の考えている内容を出力することを重要視している。出力する、ここでは簡単な実装で言うと、書く、ということになる。
書くというのは、それ自身は非常に簡単な行為である。しかしながら、その行為を通じて、脳内の作用が大きく影響することは確かであろう。
人はどうやって過去・現在・未来を区別するのだろうか?
私の場合、過去はそれ自身がこれ以上変わることのない事実、である。過去に対して私は簡単に区別することができたのだが、残念ながら現在と未来について区別することが、難しかったし、今もそうである。
昔、未来について想像したり、思考のまな板上で現在と未来を、同じ土俵で陳列することは不可能だった。その理由は一重に、未来というものを信用していなかったからだろう。信用とは? ここでいう信用とは、信じて用いることができるかどうか、その言葉その文字のとおりである。結局私は未来というものは信じていなかった。信じていなかったので、不確定要素だと未来について捉えていた。その結果、私は未来を信用できずに、判断基準や判断材料や概念のひとつとして用いることはできなかった。
結局この未来の概念ができた理由に考えられる要素は二点である。
一つ、過去と現在のログを取ったこと。一つ、ウィークリーレビューなどで、振り返りの作業を繰り返したこと。いろいろ考えた結果、どうやらこの要素が非常に大きいものと思われる。
社会人に入って中堅どころになると、広い視野を、もっと先を見越した考え方を、と要求を受けるようになるのだが、少なくとも私の周りにその方法について開示することができた人は誰もいなかった。私の結論としては、原因と結果の関係のレンジをだんだんと広げていくことでできるものと思われる。つまり、想像できる未来というのは、過去のユースケースのバリエーションと組み合わせから組み立てられる結果であるだろう。
過去・現在・未来を決定付ける中で必要になる要素は、ある事象が発生した時系列である。事象と事象とが関係するためには、共通の項目がありその項目が遷移するための時間がある。その二つがあってようやく、原因と結果の関係性ができあがる。それをどうやって、理解するのか? 理解できるのか?
書くことの作業について戻ろう。書くことそれ自体は、やはり状態遷移の一種であろうと思われる。書いて、頭で考えていた内容を出力した場合、脳はどのようにその情報について判断するのだろうか?
GTDではオープンループという概念がある。脳のシナプスにずっとずっと情報が流れている状態を指し示す。通信プロトコルのブロードキャストのようだ。クリアに異なる点があるとすれば、おそらくシナプスにはその情報を止める機構とブロードキャストのメッセージを止める機構の性質がことなる点であろう。ブロードキャストの場合、あるノードに送られたメッセージは記憶され、他のつながっているノードに送る。次にそのノードが同じメッセージを受け取った時、すでに送られたものとして、そのメッセージは再送信されない。
ブロードキャストの再送制御機構が強固であるが、シナプスの再送制御機構は非常にゆるいものと思われる。脳の場合、どうすればこの再送をやめるようになるのか? 可能性と考えられるのは、今のところ次のようなことが考えられる。
(1)他の情報とマージされた
(2)中期or長期記憶層に移行した
(3)他の方法で保存された
(4)その情報がこれ以上流すに不要と判断された
(5)それ以上に重要と思われる情報に優先された
とにかく、可能性として再送を止めるやり方はいろいろあるが、手っ取り早くオープンループをクローズループするには、(3)もしくは(4)が効果的であるだろう。(4)は要するには自分で判断することだ。これはいらない、そう決定するだけで、脳での情報は流れづらい。(3)は脳以外のいずれかの場所で保管された場合である。つまり、これが書く作業に相当する。
そもそもどうして、オープンループのような状態になるのだろうか? それが自分にとって必要かも不必要かもわかっていない情報だからである。よくある「いつか必要かもしれない」というような状態が、脳で行われているのかもしれない。それで、浅瀬の中で旋廻するイルカのように、何か新しい情報が更新されるまでは泳ぎ回っているのかもしれない。中期or長期記憶層になると、思い出す作業が困難になるので、すぐさま思い出せるように、頭の中である程度情報として励起状態を保っているような気がする。そう、情報の再現性という問題である。
書いた後はどうなるだろうか? たとえば紙に書かれると、その紙の紙片をなくさない限り、その紙を見れば自分の書いたものが見れる。これはつまり、再現性が確保されるということだ。単に再現性と書いているが、時間で言えば、ほぼ書いた後から紙をなくす瞬間まで、再現されていることである。この情報が継続してアクセスできることの素晴らしさは何たることか! 情報というものは、頭の中では重要である重要でないに関わらず、砂で作られた城のごとく、もろくも崩れ去って行く。城の塔であろうが城門であろうが、である。情報が、頭の中で固定化(名称がすぐに出てくるような状態と考えてもらってよいだろう)していない状態で、情報を保持することは難しい。
今回ここで非常に記述しておきたいことは、紙で書かれた状態を、頭の中で同じことを実現するには非常にエネルギーがかかることだ。そして、オープンループというのは、この非常にエネルギーがかかる状態であることだ。
このほかにも書くことの効果はある。もやもやした内容が文字という形あるものに収まるために、それ以外の情報を捨て去る点だ。まとめる作業も複数の情報のうち、必要な情報をピックアップすることなので、相関性はあるだろう。
自分コメント
- とりあえず吐き出し
- via 筆記療法