Monthly Archives: 6月 2009

時間を捉えるということ View Comments

 

例:今ここで僕がやっていることの進捗管理記入例

  • 8:51~8:57 目標:時間管理表記入

進捗:表記入中(今ここ)

  • 8:57~9:03 目標:最後のパラグラフまで記入、見直し

進捗:(空白)

(中略)

こうして、本などで紹介されているものよりも、短いスパンでの時間管理を積み重ねると、最終的には週間や月間、ひいては半期や年間の目標もうまく考えていけるようになりました。最初は面倒ですが、ここを突破すると、うまく目標管理ができるようになったと思います。

時間管理例紹介 – FDmountwill_millsの日記

 

私もこのやり方が、いいと思う。

 

記録することから予測することへの展開パターン

  1. 日々の記録(上記のようなパターン)

  2. その日のまとめ

  3. その日にやること計画

  4. その週のまとめ

  5. その週にやること計画

  6. プロジェクトのまとめ

 

記録したり・計画したりすることの、現在を基点から見た時間的範囲は下記のように広がるんではなかろうかと思う。なんか、poicでこんな図を見た記憶がなくもないのだが。。

image

特にこの視点の変遷が見てとれたのが、体育教師の先生が陸上部の部員に毎日日誌を書かせて全国優勝に導いた人の、その日誌の取らせ方。

 

ポイントとなるのは、過去となるものを記録することから始まること。

行動付帯条件 View Comments

この場所だったらこの作業ができる、というのは、いつの間にか決まっているように思われる。

  • 電車 ― 落書き・文章を書く・本を読む・寝る
  • 家 ― くつろぐ・ご飯を食べる・ネットする・ぼんやりする・寝る
  • 会社 ― 仕事する・ネットする・文章を書く・仮眠する
  • 歩く ― 妄想する・瞑想する・ぼんやりする
  • 待つ ― 本を読む・ぼんやりする・文章を書く・落書きする・寝る

どうしよう。。家のモードが全くぼんやりモードというかインプット型の項目しか存在しない。すかさず寝ようとしてる件については無視の方向で。

 

それにしても勉強するところのタイミングが全くない。というか、主要な考え方をするのが電車時間というのは、高校と大学時代の習慣というか弊害に依るものだろう。というのも、高校は片道1時間半、大学は片道2時間の通学生活だったので、まぁそれはしょうがない。

家でのモードは全くといって、インプットタイプもしくはぼんやりタイプである。確かに、家でのどの場所でも、積極的に勉強したいというようなスペースがない。茂木健一郎大先生は、その気になればそこが勉強部屋さ!とおっしゃるが、それはやる気と行動がすぐに結びつく輩の場合であって、私はうまく行かない。

第14回GTD勉強会ログ ~基本に戻って概要だ!~ View Comments

今回のテーマは「基本に戻って概要だ!」でした。

今回の勉強会は、初心者向けだったので、最近はじめた人が多かったです。とはいっても、おおよその概要は皆さんご存知だったので、今回は実践でつまづきやすい部分のフォローに焦点を絞りつつ概要を紹介しました。フォローに関しては主に下記の2点+補足1点です。

  • GTDは、どちらかというと数に焦点がおかれている
  • 実行する時はやる気をあてにするな
  • 社会人1~2年目は別のことを考えよう

 

GTDは、どちらかというと数に焦点がおかれている

GTDだけではないと思うのですが、タスク管理ツールは最初の使い勝手のよい時期から、途中からタスクが消化できない状態になります。その理由はいくつかあります。GTDの場合は、状況が合わないということが理由に挙げられます。それで、上記の見出しのことを説明しました。

GTDはどちらかというと、いっぱい持ちすぎる仕事をどう切り盛りするかがメインです。いっぱいの場合はよく働くのですが、これが少なくなると動かなくなります。その結果、次のような状態になります。

GTDは、忙しい時は上手く働きやすいが、忙しくないと上手く働かないことがある

忙しい時は、時間が少ないことも手伝って、思った以上に仕事に手をつけられます。しかし、忙しくないとそうではなくなってしまい、手をつけられない場合があります。もちろん、タスクが難しすぎて手が出しづらいということもありますが。

ひとまずは、GTDがうまくいかない場合もある、というのを理解してもらえればと思って、こういった話をしました。

 

実行する時はやる気をあてにするな

じゃあ、GTDが動かずに実行できなくなった場合はどうするのか? もうぶっちゃけこれは「実行する」しかないんですよね(笑)。 で、健やかな時も忙しい時もGTDをやってきて思ったことの私の結論としては、以下の通り。

やる気があるのと実行できるのとは、別問題。

ぶっちゃけ、やる気があるなしに、仕事が実行できるかどうかは関係あるようで関係ないです。特にそう思ったのは、仕事がヒマになった時。とにかくやる気が出ない。やる気がでないから、ちょっと他のことをやってやる気が出るのを待つかー、て思ったりするわけですよ。で、実際別のことしたりするんですよ。しかし、やる気でねー! で、考えました。

そもそも、やる気をあてにするから駄目なんであって、やる気がなくても実行しなきゃいけないものは実行しなきゃいけないんだ、と。ただ、やる気がある状態で実行できると、とても気持ちがいいんですね。それは理解できます。でもやる気を引き出すには、いろいろ大変です。ライフハックになるぐらいですし。ちなみに、私はそんなライフハックを実行するのが面倒くさい派。これじゃどうしようもありませんね。

で、ハタと気づいたのがネクストアクション。ネクストアクションは実行しやすいように、次に実行する最初の第1歩を書いています。これってよくよく考えたら、自転車に乗るための、サドルにまたがるためのようなもんなのかなーと。でも、サドルにまたがるのにやる気もへったくれもありませんよね。

つまり、GTDのネクストアクションも、うわ、これはしにくい! と思ってやるようなものは書かずにどれでも手をつけられそうな、結構曖昧な文章をネクストアクションにもってくるのもアリかもしれないってことです。以前、アクションの下に手順という概念を紹介しましたが、ここで説明しているのは、ちょうどこの手順となる第1歩を用意することです。

実際にはどんなのか? たとえば関係資料のショートカットを押すことだったり、URLを開くことだったり。これぐらいだったらまぁ実行してやらなくもない、程度のものです。

まーそんなんで、やる気が出るまで待ったりするのに時間を浪費する以外の方法として、とっとと実行するのもいいんじゃないかなと思います。とはいっても、それができたら、私もこんなにブログを書くのが遅くなってないので、あんまり説得力はありませんね。…… 。

とととりあえず、GTDはやる気を管理してくれません、怠惰も解決してくれません、ってことで、GTDにも限界があるのも理解してもらえればなー、といったことだったり、やる気をあてにせずに実行できるものが用意されているのが、ネクストアクションの意義の一つでもあるかもよ、といったことだったりが、この項目の主旨でした。

社会人1~2年目は仕事の枠を考えよう

で、最後に社会人1~2年目の人の仕事管理について。実は今回は嬉しいことがあって、同じ会社の人が参加してくれました! その人が社会人1~2年目ということもあって、今回補足として追加します。

GTDは正直言って、仕事もこなせられるようになって、自分から仕事を作ったり他の人から仕事を作られたりして、複数仕事を抱えてしまって激しく困った人の最適解です。だから、社会人になって1~2年目で、そんなに忙しくないならば、GTDしなくてもいいんじゃないかな、と思うかもしれませんし、勉強会でもそのようなコメントがありました。個人的には、確かに、と思う反面、そうかな? と思ったりもします。

そうかな? と思ったのは、仕事が忙しくなったと気づくのが難しいからです。仕事が忙しくなるのは徐々にであって、正直忙しくなった、と思った時には大概手遅れなことが多いです。少なくとも私はそうでした。しかも、結構簡単なことから複雑になってくんですね。最初はミーティングがいろいろ追加されたり、それから他の人とのやり取りが増えたり。こんな単純なことで、一気に混沌を迎えます。いつそうなっても大丈夫なように、今からGTDを習慣づけておくのはいいかな、と思い、「そうかな?」と思ったワケです。

一方、確かに、とうなずいた部分は、その仕事の部分の枠つくりが曖昧なんじゃないかな、と思ったからです。GTDのプロジェクトでは、一般に指し示されるプロジェクトと同様、スタートとエンドをきっちり作ることが大切です。社会人1~2年生では、このプロジェクトは上司だったりリーダーだったりから、渡されるものです。そして2年目以降から徐々に自分で定義して、行動できるようにしていく必要があります。

その枠がうまく作れてないのなら、GTDをするのもなー、というのがあって、それで「確かに」という感想に繋がってます。勉強会中ではやっといた方がいい、とは言いましたが、今の気持ちは、GTDよりもその枠作りを気をつけるべきかなぁ

「ADDの傾向なかったよー」「え゛っっ?!」 View Comments

自分が普通だ、と思っていたことが実は違うのだと知るのは、随分衝撃的だ。

私は最近このような経験を2度している。一つはエマジェネティックス研修で、そしてここ最近のもう一つは、ADDチェックである。

ADDについては、ついぞ誰にもそういう傾向はあるだろうと思っていた。で、チェックをしたところ、私自身に不注意型ADDの傾向がある、と出ても、大体そういう判定はつくものだろうと思っていた――その時の心象を正確に表すならば、たかを括っていた。しかし実際はそうではない。

友人が同じチェックを行ったところ、どの傾向も0であり、何らの傾向を示さなかった。この時、タイトルのような反応を私は示したが、それ以上に内の驚きといったらない。それから更にしばらくした後、自分はADDの傾向があるんじゃないのか、と、心の何かがドーンと落ちた。

 

心の何かがドーンと落ちた、は恐らくアハ体験のマイナスのパターンのように思う。自分にADDの傾向はあるだろうというのは、薄々感じていた。そういう傾向は認めていたものの、今まで成人になるまで多少なりとも問題はあっても生活はできてきたのだから、取り立てて問題としていなかった。入社式に社長を目の前にしながら居眠りをぶっこいたとしてもである。

それが、友人の質問の結果が何の傾向も表さなかったことで、この質問で傾向が出ることは、本当にその傾向があるのでは、と真面目に認識したのである。結局のところ、私はそれなりの気持ちで判定の質問に答えていた割に、全く信用していなかったのである。この事実は非常におもぐるしい。私自身は信用していたのにも関わらず、実際の所は全く信用していなかったのだから。ああああ……。

心の何かがドーンと落ちたことで、ようやく事実と認識が結びついたのである。ちなみに、この現象は経験と認識がつながったことによるエネルギー遷移だと、私は勝手に思っている。あんまりうれしくない。とはいえ、これがあったことで、私はようやくADDという内容に、向き合うスタート地点についたように思う。

 

しかし私は少し悩んでいる。ほとんど80%がた、どうするかは決まっているのだが、どうやら私の中に、反対勢力がまだいるようだ。コンセプトの強い私は、面白そうじゃーん真面目に判定受けにいこーぜ! と声高らかに言ってるのだが、その反面一部の勢力が「ちょっと待ってよプレイバック! そんな重要なことを面白そうで受けに行けるか!」と反抗している。明らかに分析型&柔軟性の「私」だ。こやつらの徹底抗戦は激しいもので、「私」たちの大半は何度も意見を覆されることがしばしばある。

反対勢力の意見はこう。

  • 受診した所でメリットがない
  • 会社に対する考慮はされるわけがなく、それは今まで生活できてきたことからしても、今後表明したところで全くの効果がない
  • 受けたとしても、具体的な弱点部分がでなければ、どの現象が作用しているのかを特定できない

この反論に対する反論はこう。分析型&コンセプト型ががんばっている模様。

  • ADDかそうでないかが判明することでメリットがある。今後どっちかどうだかで悩む必要がない
  • 体の性質がそんなだから何か考慮してほしいとは思ってないし、それを気にする理由がわからない。だいたいそれを表明するのも、なんか野暮ったいのでやりたくないし。
  • まだ検査については調査中だから、具体的な弱点部分がわからない、とは言い切れない。
  • 仮にADDだとすると、いくつかの不可解な行動がADDで説明できるかもしれない
  • やってもいないのに、文句を言うのはどうか
  • とにかくやらせろ

多分する方向で。特に緊急の内容でもないので、いつ実行するかは未確定。

 

しっかし、GTDTimesを読んで再考するとはなー。

歩みとエネルギーとカネボウの戦略 View Comments

私は精神論系の理論から実践に落とし込む方法では効果がでない。意志なんたらでどうにかなる部分も数多くあると思うのだが、私には非常にムリだった。その感情でうまくできるのは、EGで言う社交型のスタイルがよく持つ場合だろう。私はあまりそうではないし、分析型スタイルの方がパーセンテージ的には大きいため、理論的なアプローチを選択することが多い。それは、自分自身の感情の揺らぎについても、同様のことが言える。

 

本を読んでいたり、ブログを見たりしている時によくあることだ。

「なんだ、コレ知ってるよ」

「あれと一緒でしょ」

というような感覚。一言で言えば慢心という言葉が適切じゃないかなと思う。

上記の感覚は、私には危険信号になる。それは自分の歩みがゆるくなっている証拠だ。入力に関する受信する範囲の取捨選択に捨てるものが多くなるとき、以上のような感覚に陥ってるんじゃないかと思う。同じなら同じでいい、ネットワークならば同じものでノードを大きくする必要があるが、慢心した気持ちの場合には、自分の中のそれと融合しない。捨て去られる運命だ。

これの何が悪いかというと、自分で物を考えることを止めたシグナルだからだ。それに対しての理解を一切止めて、自分の中に組み込むことを拒否する。それと自分の中で似たものとの同値や差異の比較をすることすら止める。それが連続したものの見方に遷移すると、「偏見」になるような気がする。

一時期、自分の中で進むのが止まったと感じたことがあり、そんな時には、特にそういう風に思った。しかし動くことがなくなれば、進んでいる物へ同じ進みを強要しようとするのは反作用よろしく至極自然な結果のように思う。

 

 

ジェットコースターに乗った時、あまりに怖くて数字を数えるようにした。これは功を奏し、私はジェットコースターを前向きに楽しむことができた。

ジェットコースターのスキな所は速さと重力のやるせなさだ。一方キライなのは、落ちる前のあの落下までのゆっくりした上り坂と、それから一瞬フワっとなるあの重力感からいきなり落ちる遷移状態だ。気持ち悪い。

姉に言わせると、そのフワっと感が面白いらしいのだが、速さだけを求める私には、むしろ不要というかなくしてほしいし、突然やってくるのも頂けない。既にロードマップ上に存在する直前の恐怖ほど嫌なものはない。

とにかく、突然であることが嫌さの原因だったので、数を数えてみた。そもそも数を数えようとしたのは意識をずらすためだ。数を数えている分には、自分の知る時間軸で時間が過ぎる。いつやってくるかがわからず恐怖ならば、数を数えることでしかるべき時間にやってくることとしたんではないかと思う。

これが良かった。あの上るまでの不愉快な時間はなくなりつつも、その後の楽しさを楽しむことができた。ここから何が言えるのか?

 

相手と足並みを揃えることが良かったのではないかということだ。

 

 

慢心な気持ちは、相手と足並みが揃ってないことから生じる物理作用なんではないかと思う。つまり、自分が止まってて相手は進んでいるから、相手を遅らせようとするのではないか。相手の内容が止まった情報で受け入れるべき情報ではないのか、という判断を自分にせしめているんではないかと思う。

ならばその慢心を回避するための策は、相手と足並みを揃えることだろう。

 

しかし、進む方が受け入れることを拒否することは、止まっている方よりかは割合が少ない。これはどうしてだろうか? エネルギーの違いなんじゃないかんと思う。進んでいる方がエネルギーが大きく、エネルギーの小さい止まった方は、エネルギーの大きさを受けきれないんじゃないかなと思う。

 

これを逆手に取って戦略に落とし込んだ方法が、コレなんではないかと思う。

 

【東京ブック】 対等に見せる戦略 – IDEA*IDEA ~ 百式管理人のライフハックブログ ~http://www.ideaxidea.com/archives/2009/06/tokyo_book_2141.html

「カネボウが化粧品業界に参入したときの戦略は見事でしたね。

資生堂が10だとすると当時のカネボウは1ぐらいの売上しかなかった。

でも資生堂が口紅のキャンペーンをすればカネボウもする。

アイシャドウをすればカネボウも追随する。

そうすると一般の人には10対10の会社に見えてしまうんですよ。

10対1の売上とは思わないのです。

そして売上もだんだん、少なくとも10対3とか4になってしまうのです」

太字は使わない View Comments

書き方のフォーマットは人それぞれだと思う。私は、基本的には本と同様のフォーマットに従うようにしている。章の始めの一文字ずらしはできてないが。

フォーマットは、自分のいいたいことを整理するための手段だ。私に提供される手段は以下の通り。

  • タイトル
  • 見出し
  • 段落
  • 改行
  • 箇条書き

太字は使わない。

 

太字にすれば、自分の言いたいことに相手は一応注目するだろう。しかし、それでは、その太字を言うために、それ以外の文字を尽くした理由がなくなってしまうんじゃないかと思っている。自分で種明かしをするマジシャンのようだ。その一言で相手に楔を打つのが済まされるだろう。しかし、そのバックボーンや熱量を合わせて伝えることによって、相手の心の中でその言葉を召喚させることが本筋なのであろうに、その読み手が本来すべき作業を書き手が分捕って作業する。要するに、相手が読み取れないって思って自分で作業やってんじゃねーかと思う。この相手への信頼のなさ! そして自分自身の文章とその構成力のなさ! その結果が文字を強調させてんじゃないかと思うと、自分がふがいなく感じるのだ。つーか、どんだけ自分に自身がアルノヨ。

そんなことを感じるので、個人的に太字を使うのは、自分が負けた気になるので使わない。

これは書き手からの視点。読み手からの視点からだと、文字にえこひいき感が感じられてて、なんだかつまんないんだ。そう、つまらない。

 

さっきも言った通り、自分で種明かしをしているマジシャンのようなんだ。まぁナポレオンズなんかは敢えてそういう振る舞いをしている所が売りなんだけど、文章もそういう売り方があるかもしれない。私もそういう日記を楽しく読める。それに私も昔は太字を使って書いていたことがある。しかし最近はとんとしなくなった。

しかしどうしてつまらなく感じるのだろう?

 

先ほどえこひいき感と言った。まずつまらなく感じる理由の一つがこれだ。文章はその文字量からして、正直一列に読み解くようなものではない。そして全ての文字が一つの目的にそって働きかけるはずなのだが、太字でその文字に働きかけに上下が生じる。太字の文字がフォーカスされることで、他の文字の価値は薄れる。そして本来備わっていた熱量が制限される。

日記で見るような太字はこれが反対で、むしろ太字やフォントの大きい文字を際立たせるために貢献される。だから多分あまり違和感がないんだと思う。

でも主義主張や自分のマジメに言いたいことで使われたりすると、ちょっとした違和感を感じることがあるし、個人的には歪んで情報を受け取った気になる。人によっては理解しやすいのかもしれないけれど、

 

次に考えられる理由が、文章書きとしての限界を露呈している気分になるからだ。私は昔は小説を読むことが多かった。最近の小説ではどうかわかんないけれども、小説で太字を使うのはありえなかったし、できれば今もそうしてほしい。太字がなぜ使ってほしくないか、と言うと、地文の構成がおかしくなるからだ。太字レベルの文字というと、次には章タイトルや見出しだ。太字はそれと同様の効果を知らしめる。それが地の文で出てくるのはもう、卑怯技に近い。

こんなに文字を尽くしても自分の言いたいことが伝わらないなんて、と思うことがある。文字ということに限界を感じる。それでも尚、その感情ですら文字を介在することでしか言えない。そんな大前提の中で、文字を尽くすことに意味のなさを感じつつそれしか縋ることしかできない。それなのに、太字を入れて自分の言いたいことが伝えきれることができるのか、私には証明できない。もちろん、強調のために用いている人もいっぱいいるだろう。つーか私じゃねーか

文章が、その人の中でどのような言葉に集約されるかは、異なる。どんなに太字にして強調したとしても、それは異なる。それにも関わらず、太字にする程その部分に執着するほど、自己主張したいのか、それとも自分の他の文章で収束できてないのか、それとも理解しやすいようにおせっかいでしているのか、私には図りかねる。

 

 

とはいっても、どのように文字を修飾して、自分の言いたいことを伝えようか工夫するかは、その人のポリシー次第だ。

私は太字を使わない。……多分。

連続性の不可解さ View Comments

どうしても自分を変えられない:自己変革を妨げる「私」のなかの「私たち」 | Lifehacking.jp
http://lifehacking.jp/2008/10/first-person-plural/

私たちは「自我」というと、今日も明日も「私」という一人の人が持続して存在していると考えます。しかし最近の心理学の研究で、より現実的にはいくつもの「あれをしよう」「いや、これをしよう」と争う異なる自我の不安定なコンポジット(合成)が、いわゆる「私」という自我の本質なのではないかという学説が提示されているという話題です。

二重人格や痴呆症等、一人一人格という状態がなくなる可能性はよくある。それは、通常一人格を所有する私たちにもあるんじゃないかと思う。

佐々木正悟さんの中でタスクシュートの話があって、そこで一番好きなくだりがある。次の15分を別の誰かに、というくだり。「私」という人格を、敢えて(少なくとも私には敢えてに見える)時間で分割することにより、行う。メメントのような不可解さではあるが、実際にある話なのでそのような運用もありかもしれない。

 

ところで、二重人格や多重人格になると、どうして日常会話で使ってない言語が使えるようになるのか不思議だった。それを友人に話したところ、次のような回答を受けた。

「だってそれが当然になるのだから」

これは衝撃だった。何がどう衝撃かは説明しきれないんだけども、当然ならばそこに使用に迷う余地がなくなるということが。

しかしそれはアリかもしれない。例えば私はマンガが好きだ。私のマンガの楽しみ方の一つに、キャラがそのような言動をしたのか不可解な時に、自分なりの答えを見つけ出すことだ。その時はその前後の言語や行動、状況を総合評価して、それなりの理由というかこじつけというか考えだそうとする。これが結構自分では納得のいく答えが出てくるのが、自分には絶妙でなんとも面白い。

こじつけなんだけどなんだか納得する感、これが記憶の分断された人格の中で、別の言語使用が当然ならば、それを伝達道具として用いるのは当然かもしれない。

 

ところでところで、多重人格と言えば、それを統合するというか取りまとめる人格がほぼ必ずいることもなんとも絶妙だと思う。プロジェクトのロールを見直したりしているのだが、規模が大きくなると、どうしてもリーダーを取りまとめるリーダーという、オルガナイザーが必要となる(ちなみに私がオルガナイザーという言葉を好んで使っているのは好きな小説で使われていたというだけだ)。たとえ多重人格であっても、そのオルガナイザーの出現はどうしても必要なみたいだ。

頭脳自体もシナプスのネットワークだ。プロジェクトは人のネットワークだ。粒が集まるところに一律なサイクルがあってもおかしくはない。

 

ところで最初の話。「異なる自我の不安定なコンポジット(合成)が「私」という本質ではないか」ということだが、個人的にはむしろこちらの方が納得が行く。

自我というか、言語で表現されるある特定時間での思考の発露は、シナプスのあるネットワーク経路の通過信号だと仮定する。頭の中でいろいろなネットワーク経路の通過信号が発信されれば、さまざまな思考が脳の至るところで発信されているのではないかと思われる。だから、こうやって考えている間にも、別のシナプスネットワークへの通過信号が発生して、話が続いているのかもしれない。そして、しばらくたてば消滅しているのかもしれない。というか多分消滅しているのだろう。

それにしても、いつも思う。この連続性を感じる感覚だけはいつも不可解だ。確かに「私」は「私」という固体の中に存在する脳から発生した信号で、発露された言語を用いて発信しているが、十数年前の私と同じ私を共有している、ということを確信していることにいつも不可解に思う。

十数年前の思考は発露したその時点で死滅しただろう。島田雅彦に喚起した17歳の私の思考は、今の私には理解できない。けれども、私がいくらその思考を不可解に思ったとしても、それらの私を経由してしか、今現在の私は成立しない。今の私にパラレルの世界はない。今が全てだ。いつまでも今が今で、それが全てだ。振り返って私は見つける。

私は私の屍を越えて行く。

Get Adobe Flash playerPlugin by wpburn.com wordpress themes