- pomeraでかく
- 終わったら■をつける
- ■をブログにあげる
- ■で最終更新日であげる
- ■は消す
RSSから一部をはずしたのはいい! 気が楽だ。mixiの足あと見ないぐらいのことなんだけど気が楽だ。
物理的経験は共通化されない。そんなんで、pomera用に慣れる必要があるようだった。考えられる要素は以下3点。
(1)キーボードのタイピングに関して(手の動作)
(2)画面の表示領域(視覚の範囲・一度で見える範囲の量)
(3)タイピング速度と考える速度の調整
(1)については想定内のことだったので取り立て興味は引かなかったのだが、(2)と(3)は想定外だった。
(2)で、デフォルトの文字が小さく感じたので文字を大きくしたら、一度に表示される文字数が少なくなった。そうすると、考えてタイピングする思考の流れが合わなくなった。
私はタッチタイピングで行うので画面を見ながら文字を打つ。PC上の画面ではそんなに表示されている文字には注意を払ってなかったのだけれども、pomeraを使って、実は表示される文字に結構頼ってたんだなーと実感した。
それと合わせて(3)も影響が出てることに気がついた。Draftsカテゴリを書く時は、通常の記事を書くときより若干速い速度で書いている。取り立て意識してそうしているわけではなく、自然とそうなる。
pomeraではDraftsで出すような意識で書きたいと思っているので、速く書けることを特に気にしていた。だのに、そのような状態になるのに、多少時間がかかることにちょっと驚いたのだ。
つーか、そんな細かいこと気にすんな! と自分に言いたい所だが、やはり不愉快だ。
「最適に思っていることをタイピングしたい」ということには、タッチタイピングの状態、一度に見れる画面表示量、タイピングの速さに依存することをまざまざと感じた一件だった。
2009年5月の後半、EGトレーナー研修を受けた。私は会社で働いているので、そういう類を生業にしているわけではないので、特に参加する必要もなかったのだが、とにかくもう受けたいのと、あとプロファイルを使ってみたいのとで参加することにした。
これは極めて英断だった。値段的にも(笑)。
EGトレーナー研修は極めて珍しい状況だった。というのも、参加者もそうだが、トレーナー自体もすべて、コンセプト型スタイルを優勢に持っていた。日本ではEGトレーナー研修は、今回で2回目。1回目の時はディテール型も優勢にいて、そうではなかった。コンセプト型はお祭りタイプなので、まぁ随分明るい雰囲気に恵まれてプログラムは進んだ。
2日目のプログラムを終えてリフレクション、つまりまとめの時に入ろうとした時だった。音楽が流れてなんだかぽろっとしてしまった。他の人がリクレフションで答えている時にも、全然ポロポロは止まらなかった。
エマジェネティックスの本を初めて読んだ時に感じたことは、ああ、自分も普通なんだ、ということだった。コンセプト型で説明された男の人は、シャレじゃなくて自分のことみたいに感じた。別に、ヘンとか普通とかって何なのさ? という気持ちはあったとしても、まぁいいや、て思ってた。でも疎外感みたいなものはいつも感じていた。それの根本的なものが何なのか、というのはついぞ分かっていなかった。
EGトレーナー研修ではコンセプト型ばっかりの研修だった。コンセプト型はアイデアが思いつくタイプ。まぁちょっと変わってるね、新しいものがすきね、という人はこの特性が強く出ている。私がヘンでも、基本的にヘンな人ばっかりだ。正直初めに思ったことは、あんまり我慢しなくても大丈夫なんだろう、ということだった。実際、現場はその通りだったし、ワークショップも、私自身が考えつかないようなアウトプットが出てきて驚くばかりだった。びっくり箱みたいな、とても楽しい研修だった。
2日目に涙したのは、多分このメンバーのおかげなんだろうと思う。コンセプト型ばかりのメンバーで、私は加減することなく参加できた。それが多分心に響いたんだろう。
EGトレーナー研修では何がもたらされたのか。全面的に自分が受け入れられた空間がもたらされた、ように思う。とりわけ、不特定多数という条件で。
私たちは一体感というのが好きだ。あれは、てんでばらばらの人達がいても、ある同じ目的のためにそれぞれが行動していることから、あたかも同じように感じるのだと思う。1forAllではないけれども、楽しいこともつらいことも同じことのように分かち合う。それはそれで、自分が受け入れられている空間なのではないのかな、と思う。
別に何かされたわけでもないし、私もしたわけでもない。ただありのままで存在することが許された、単にそれだけだ。たったそれだけなのだ。
今回の研修でサポートに入っていた人ともお話をした。私が上記のように泣いたのには随分驚いたみたいだ。見た目的には随分クールなのに(どうやら印象はそのようならしい)、そんな風に泣いてびっくりしたそうだ。日本の教育にも抑圧されていたのかも、ということを話してくれたが、そこには神経が至っていなかったので、確かにそういうこともあるかもしれないと納得した。
これまで表示してきた文章は、友人に言わせると「眠たい教授の文章だ」なのだと言う。ぶっとんだ話にならないよう最新の注意をかけてきた成果がこれだ。そしてDraftsに書く文章は面白いと言う。分析型の私にしてみれば、随分つっこみ所の多い、論理的な梯子がいまいちな文章だと言われること請け合いな文章なのにも関わらずである。
Draftsというカテゴリを作って、RSSに流さずに記事を書こうとしたのにはいくつか影響がある。公開してない文章があまりに多すぎくなってきたのとか、それを時系列に管理しておきたいのとか、poicのぶっとんだ文章を公開しているのが羨ましくなったのとか、そろそろ面倒くさくなったのとかまぁいろいろ。
Draftsというカテゴリを作って、もうちょっと書いて公開する範囲を広げようとしたこと、それからもうちょっと気軽に書いてみようと後押ししたのは、EGAsiaの今回の認定トレーナーであるジョシュのおかげだろう。
研修後の懇親会、ジョシュと話した。つたない英語でなんとか、今回の研修がよかったことを私は伝えた。ジョシュは熱心に聞いてくれた。そしてこうも言ってくれた。
「Emiはステキな所が一杯なんだから、もっと心を開いてごらん、Make you open」
「Make you open」は、私の好きな言葉の一つになると思う。そして今思ったんだけど、ジョシュはヨシュアなんだよね。聖おにいさんのTシャツを応募したんだけど、あたんないかなと思う今日この頃。
そういえば、自分には「懐かしむる感覚」というのは、皆無に近いなとハタと気がついた。
懐かしいという感覚に至るには、二つの要素が必要のように思う。
上は最悪よしにしても、下の項目についてはついぞ確信がない。感情の壷というか坩堝というか、そういうのが全く何も発露されてない感がある。
経験と感情がどうにも隔離しているような気がする。ノートを取る時に、それを思い出すためのツールとなりて、などとそれを前もって用意しながらノートを書くといったようなことをウェブで見かけたのだが、私がそれをして見直したとしても、全く感懐がなかったのだ。昔の日記を思い出しても、あの頃は若かったなー、と思うことはあっても、その当時の気持ちを再現することはかなり難しい。
思い出とは。
思い出は、記憶の中にそれを思い出すことで、その時の記憶がまざまざと再現できることがある。その時に感じた憤りや悲しみや怒り等の感情すら、その形のままで再現し、同じ時間を再度繰り返す。最近読んだ本「なぜ年をとると時間が早く過ぎ去るのか」みたいなタイトルの本で、そんなことが書かれていた。
残念ながら、このような再現能力は私には皆無に等しい。
それについて特段問題にはしなかったし、それが随分人と異なるとも思っていたのだが、実際のところどうなんだろう? 正直なところ、私は敢えてそういう部分を放棄してきたきらいがある。自分自身に発露する前に、かってに受け取って勝手に振り回される感がある。だから敢えて外部で発露している感情やそういったものを受け取らないようにしてきたもかもしれないし、そもそもそういう風だったのかもしれない。
そういう経路があるにしても、まぁとりあえず再現能力はやっぱりないし、手帳で思い出して懐かしいなと思うこともやっぱりない。
それは随分悲しいことじゃない?
と思うのだろうか?
私はこれを悲しいことが思ったことがないし、確かに困ることは派生していくつかあるかもしれない。けれども、現実にはあまりに処理すべきことが多すぎて、過去を振り返る時間など取るに足りない結果だし、実行してきたことについてそれを楽しむには、私には楽しみが少ない。
まーしょうがないよね。楽にする作業のその時間が一番好きなんだから、終わって動くことがないものに興味が全くないってのは。過去を懐かしむことはないけれども、過去を蔑ろにしているわけではない。
ただ、感情とともに思い出さないだけだ。
最近の本を見かけて、「~力」という言葉が多くなって、面倒くさいなーと思った。
「~力」の本→やっぱテクニック本は売れるねぇ→でも全部きっちり使えるわけじゃないんだよね→ユースケース集みたいなもんだから、やっぱり全部覚えなきゃいけないのか→めんどくさいなー、と思った次第。
最近のGTD勉強会で、話すのに重点を置いているのは、ポイントとなるべき考え方やGTDの心持を伝えることだ。正直テクニックは、伝える手段はどうとでもなる。しかし、心持だけはなかなか伝えにくい。
会社で教育研修に絡むようになって、それは痛烈に思う。会社という組織の中であっても、何かの仕組みが会社の中で存在を認められ尚且つ有効活用されるのは難しい。社員の中で名前が生きて、その中で情報が伝達されるようになるまでは、その仕組みは存在しても生きてはいない。遊びに来る人のいない遊園地みたいなものだ。
しかし、自分がそう思うとは思いもしなかった。あんまり心持といったものには信用を置いてなかったからだ。なんというかそれは伝わらぬものではないのか、という気持ちだからだ。だから、GTDを伝えたい、とは思っていても、GTDの考え方を伝えたい、とは正確には思っていなかったというのが実情である。
いずれにしても、芯など伝わるでなし、という考え方が私の中で蔓延している。
しかしかし、恒久的に相手に考え方を保持させ続けていくためには、やはり心持なくして効果のあるものなどなかった。結局のところ、テクニックなどは、その心持を実現するものではあるが、そこから心持に辿るためには、複数のテクニックを要する。心持→テクニックの展開は可能であるが、テクニック→心持の展開は、はるかに難しい。
正直心持なんて嫌いなはずだった。しかし、合理的にシステムやその成り立ちを説明するには、心持を説明するのが一番てっとりばやいのだ。心持さえ理解しておけば、そこからシステムを組み立てたり分解することも可能なんである。テクニックは、この心持を満足できさえすれば、何でもいい。テクニックが還るための拠り所が、心の中にできれば、考え方もやり方もなんとはなしに統合され、必要以上のエネルギーが必要ではなくなる。
GTDだってそうである。5つのステップ6つのリストは、あれすれも、GTDはフレームワークを持たない人に対して、仮に提供したものであって、これらをすべて満たす必要はないこともある。忙しくなければ、整理ステップは格段に縮小されてしまうこともある。GTDがツールを問わないのは、自分が満足できないツールはツールとして全く意味がないことを指し示す。
GTDの理論で恐ろしく十分のみを満たしていると思うのはこういう時である。実装を実践者に委ねている所である。
私は道具にえり好みが激しいので、手帳とかでも、フォーマット自体が合わないと年を通して使えない。いや、そもそも年を通して真面目に使いこなしたことなどほとんどないのである。それらは存分に細かいことであるが、24時間表記なのかそうでないのか、バーチカルなのか、カラフルすぎでないのか、月曜始まりか日曜はじまりか、等々気にすることはかなりある。だから、今回はこの柄がかわいいからえーい♪、などという選び方なのではなく、自分に合った手帳を選ばんと、目を血走ってコーナーにある手帳サンプルのほとんどに目を通す。
――私の、血走った手帳の話をしたかったわけではなく、形が決まっていたら、上記のように自分が合うものに出会うまで大変な道のりになることを言いたかったのだ。